くさびら紀行

日ごろの興味をもったキノコ・植物・歴史町並み等を書きとめます。
 
2008/05/02 15:26:34|川越
日本で唯一サツマイモ資料館

日本で唯一サツマイモ資料館が6月1日で閉館になります。足掛け20年歴史を振り返る特別展「サツマイモ資料館20年歩み」を開催しています。場所は川越の西郵便局の前です。



右の写真。竈焼き(カマ焼き)は米俵の藁(イネワラ)を焼き、その灰を麦、サツマイモの栽培の肥料にして、利用した江戸時代の循環型農業(地球に優しい環境)の代表の一つです。川越の平本屋のツボ焼きは「中国の農家の調理用」を利用して今も商売しています。
菓子屋横丁でも、戦後の食料難の時代はもち米が無く、サツマイモの澱粉を使って、水飴を作り、これをいも飴に仕立てたそうです。



いも菓子は川越が有名ですが、サツマイモ産地は茨城、千葉だそうです。いも堀観光は川越の福原の農家でかなりやってます。

川越がさつまいもの産地でそこから江戸までが13里だったことと、九里四里(くりよりと読む)13里。このくりよりは食べる栗→九里をくりと読ます。くりよりうまい13里。というのをキャッチフレーズにして江戸の焼きいも屋さんが売っていたのが由来のようです。





大学いもは昭和時代初期、不況の日本で、学生が学費を稼ぐために、中国から伝わった現在の大学イモの料理を作って売ったのが発祥とのこと








2008/05/01 2:08:08|川越
小江戸川越「菓子屋横丁」
川越の土蔵造りは「蔵造り」として有名です。「やまわ」は入母屋造り。当時呉服屋商を営んでいた山本平丘衛氏が建てたもので、庇の上に火災の時に使用する「目塗り台」があります。
高澤町の養寿院という大きな寺の裏参道に土地を借りて、菓子を作ったのが横丁の元祖です。そこに川越の名所の一つになった菓子屋横丁があり、特に目立つのが創業約70年の玉力屋と松陸があります。最盛期には、菓子屋の数が約70軒あって、それぞれの系統には自慢の製品があり、特色がはっきりしています。







2008/04/30 2:51:17|植物
那須郡那珂川町馬頭の花の風まつり

 馬頭町広重美術館は青木コレクションが所蔵していた幕末の浮世絵師 歌川広重の作品を中心とする浮世絵の美術館。その奥に乾徳寺があり、その中に「せせらぎの小径 」の花遍路を楽しんできました。
白い苞の中の軸に多数の花が着く、ミズバショウ花が咲いていました。花が終わる頃から葉が伸びだし、かなり大きくなるので興ざめします。


右の写真がニリンソウ(二輪草)、一つの茎に花を2個咲かせるのでこの名があり、少しずれて咲きます。この仲間には一つの茎に花を1個咲かせる一輪草もあり、花の直径5cmになるので区別ができる。


上から三番目の写真がヤマブキソウ(山吹草)。花の感じが木の山吹に似ているのでこの名がついた。条件がよいので群落になっていた。川越市もこのヤマブキソウ(山吹草)を市の花にしたほうがよいと思っています。大田道灌と関係する木の山吹を市の花にしている。



一番下の写真はウワバミソウ。一般的にはミズ、ミズナと呼ばれる代表的な山菜の一つ。 茎の根元の色違いによって、青ミズ、赤ミズということもあります。

乾徳寺の住職によると栃木県の寺のなかでモミジが一番多いので、紅葉がすばらしいとのこと。







2008/04/29 3:58:26|町並み
小江戸栃木
27日-28日、那須と栃木に行ってきました。栃木市は日光例弊使街道の宿場町と利根水系の巴波川の舟運として栄えました。江戸時代から明治にかけて隆盛を極めた商人たちが火事や盗難から守るために蔵造りにしました。
左上は横山記念館で、横山家の店舗の半分は麻問屋、半分は銀行です。右上は舟運の巴波川。
左下は県庁堀。明治19年まで県庁の所在地でしたが当時の県令が宇都宮に県庁を移転させました。
右下はあだち好古館で呉服商の蔵を改修したもので浮世絵等のある美術館。連休中、東武鉄道で行くと楽しいと思います。







2008/04/28 15:14:42|きのこ
ハルシメジ(シメジモドキ)

ハルシメジ(春占地) 梅、梨、桃などのバラ科植物の樹下に発生します。人が踏み固めなく、地面が柔らかいところ。食用にもなりますがキノコの詳しい人に鑑定してから食べてください。発生時期は4-5月頃で写真は川越の梅林です。






傘(右の写真の右)はネズミ色で暗色の繊維紋があり、ヒダ(右の写真の左)はやや疎、白色の肉色。
きのこには弱い粉臭があります。





柄は白ー帯灰色、繊維状。メモリは1cmx1cmの大きさです。