くさびら紀行

日ごろの興味をもったキノコ・植物・歴史町並み等を書きとめます。
 
2008/06/17 5:12:29|きのこ
関宿のキノコ

「キノコ屋が町並みウォッチャーに変わったの?」と最近はよく言われてます。キノコウォッチャーとして載せます。
三重県のキノコの友人たちに誘われて、関宿のキノコ観察会参加してきました。夜の飲み会をそうそうに引き上げて、翌朝5時から7時、関宿町並観察、8時から12時までがキノコ観察会でした。
キノコ自身がマイナーなのに、さらにマイナーな地下に発生するキノコ(地下生菌)を追いかけて旅行をしています。地下生菌で一番有名なのは「フランス・イタリアトリュフ」ですが、日本(埼玉)にもあります。後ほど載せます。
「アオゾメクロツブタケ」とその胞子です。真白のキノコが瞬間に
写真のように酸化され、青くなるので、名前がつきました。有名なキノコの先生はアオゾメクロツブタケ科アオゾメクロツブタケ属で日本には1種と言ってますが怪しい?。大きさ直径1-1.5cm、梅雨から秋にかけて、シイ・コナラ林に発生します。
胞子の写真は自宅の顕微鏡で400倍で撮影しました。
関東?埼玉では採集されてません。一番下の写真はこれも埼玉になく、ウスベニタマタケと言われてます。メモリは1cmです。関東?埼玉にないキノコが今回も観察できてうれしかった。これから、まるまる学園の史跡めぐりで大田のほうに出かけます。
ブログを初めて二ヶ月でアクセス数が5000回をこえました。頑張ります。









2008/06/16 3:19:05|町並み
関宿の特徴
関宿の町屋は、最も古いのは18世紀中ごろの建築で、明治の中ごろのまでのものが半数以上を占める。平入りの二階建てが一般的です。二階全面を土壁で覆った塗り籠めものが目を引きます。
左から二番目は二階手すりと格子の意匠や格子の組み方にはいろいろな工夫されています。
江戸時代の特産物として、火縄があり、数十軒の火縄屋がありました。火縄は鉄砲に用いられたので大名の御用が相当あったそうです。道中の旅人がタバコなどに使用するためにも購入したそうです。
右側は「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿取ろう」で有名な地蔵院があります。もちろん国の重要文化財です。その他にも、鐘楼、愛染堂等も国の重要文化財です。
関のいり口の東追分は東海道と伊勢まいりで有名な伊勢別街道の分岐点です。西の追分は東海道と伊勢まいりで有名な大和・伊勢別街道があります。
今回、三重に行って、「小江戸川越検定」の予想問題集のとおり三重県にも川越町があることがわかりました。







2008/06/15 2:44:11|町並み
東海道53次の47番目「関宿」

彦根城の後、三重の津市に行き、仲間の車で「関宿」にいきました。「関宿」は古代からの交通の要所で、古代の三関の一つ「伊勢鈴鹿の関」が置かれたところです。旧東海道の宿場町で、唯一歴史的な町並みが残ることから、川越市よりも早く、昭和59年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。「関宿」の範囲は、東西追分の間約1.8km,25haにおよび江戸時代から明治にかけて建てられたふるい町並みが約200軒が残ってあります。
関宿は貴重な文化財であるばかりでなく、「生活の場」でもありますので、むやみに家の中をのぞかないでくださいと書いてありました。朝の5時おきで見学してきました。
伊勢鈴鹿の関」は天智天皇死後、大友皇子と大海皇子(後の天武天皇)が皇位を争った時、大海皇子が鈴鹿・不破の関を固めたことによります。
上から二番目の写真の二階の窓は「虫籠窓(むしこまど)」です。
これは町屋の正面二階にある、漆喰で塗り固めた堅格子窓のことです。様々の形の虫籠窓がありました。

一番したの写真は関宿の中央に、高札場が復元されていました。高札場とは幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設です








2008/06/13 3:42:34|植物
埼玉西部のヒメザゼンソウ
友人から珍しい花が咲いていると連絡があり、埼玉県西部の山に行きました。ザゼンソウはサトイモ科でその姿が袈裟を着て座禅を組む達磨大師の姿にちなみ、名が付けられました。写真のヒメザゼンソウは姫座禅草、小型のザゼンソウです。東北地方から中国地方まで、日本海側斜面の渓畔の多湿地にはえる多年草で、埼玉に生育しているのはここだけかも。非常に珍しい。葉は花に先立つて,春に展開し、その後6月ころに根元から仏炎苞(ぶつえんほう)の中に花茎がでます。肉穂花序は緑色で長さ2cmです(左側の写真の笹の葉で大きさを比較してください)。

ヒメザゼンソウは山渓の図鑑フィールドブツクスに記載されてなく、牧野の植物図鑑に記載されてました。







2008/06/12 4:28:22|町並み
富士見市の水子貝塚

今から、約5500年前の縄文海進の温暖な時期。富士見市の低地に海が入りこみ、人々が海の幸を求めて、ムラ((一番上の写真))が出来、それが水子貝塚です。
水子とは水のある所、水の湧き出るところ。
貝塚とは貝殻、獣の骨、木の実の殻等を縄文ひとが捨てたゴミ捨て場(一番下の写真)。水子貝塚の貝は大部分がヤマトシジミだそうです。ヤマトシジミは川が海に流れこみ、海水と淡水が混じる「汽水域」に棲む生物です。
貝塚は遺跡では残りにくい骨や木の実なとが貝殻のカルシュウムに守られてのこっているタイムカプセルです。
驚いたことには、ここに60箇所の地点貝塚が発見され、60軒の家があったということ。
上から三番の写真は手足を折り曲げた姿で埋葬された30才代の女性と言われてます。これは人や貝などの自然の恵みに感謝し、再生をねがったものかも。
竪穴住居は地面に竪穴を堀り、柱穴を掘り、柱をすえて基礎をくみ、カヤで屋根を葺いたものです。掘った土は竪穴の周りに積んで水や風を防ぎました。
上から二番目の写真は竪穴住居の復元展示。
この前、ボランティアで川越の子供を仙波貝塚(コンクリートで作られた記念碑)に連れていったら、子供に、貝塚なのにどうして貝が無いのと言われました。
駅からも遠くなく、入場料も無料で散歩がら行くのもいいかも。