くさびら紀行

日ごろの興味をもったキノコ・植物・歴史町並み等を書きとめます。
 
2008/08/06 7:30:11|その他
黒曜石(黒耀石)

 最初、色と輝きから判断して、黒曜石(黒耀石)は石炭に近いものと考えてました。石炭は生物起源であるので違う。黒曜石はどの火山でも産出するものでなく、酸性の火山岩と流紋岩に伴う火山ガラスであるのでガラスに近いものです。
 長野小県群長和町に「黒耀石体験ミュージアム」(一番上の写真)があります。そこから、熊よけの鈴を借りて30分登ったところが黒耀石のふるさと鷹山です。旧石器時代には、そのふもとに石器工場のような遺跡が、縄文時代には、峠付近で掘り出した鉱山ような大規模な遺跡が残ってます(クレーターのような窪み)。
 割れ口が鋭く加工しやすい黒耀石(上から三番目)は約3万年もの間、石器の材料として利用されてきました。産地の限られる貴重な黒耀石を求めて、この鷹山にたくさんの人々が集まり、大きな遺跡がいくつも残ってます。全国各地(秩父の遺跡や遠くは神奈川県の遺跡から出土している。8/4のコメント「子規好き男」)へと運ばれていった黒耀石のふるさとです。
一番下の写真は体験ミュージアムで石器づくりをしているところ。バスできた小学生が「勾玉づくりと」等を体験していました。
孫のお土産に黒耀石のナイフ(石器時代には肉を切った物と同じ形)を買いました。石器は当時の古代人にはかなり便利な道具。
その他に「和田黒耀石資料館もあります。」







2008/08/05 6:13:07|きのこ
これもキノコ?(樹液酵母)
 これは「樹液酵母」です。 先ず、春先、新陳代謝の活発な広葉樹、特にコナラやミズナラ等樹木切ると、大量の樹液が流れ出ます。 糖分の多い樹液の中で酵母菌が繁殖を始め、 酵母菌による発酵が進むと、カビの出番になります。 混在するFusarium属が付くと、赤い色素を出す。 こうして写真のような糊状のペタっとした物質に変身するというわけ。 
これは粘菌ではなく、樹液性の酵母の一種だという。甘い樹液を餌に繁殖した野生の酵母の一種(単細胞の菌類、イースト菌)の塊だ。甘酢ぱい芳香を出して昆虫を呼ぶそうです。竹を切るその竹の中に水がたまり、そこにも発生します。
 ハイキングの時、埼玉、栃木、山梨等でも見ています。皆さんも会える時がきます。
 







2008/08/03 23:57:51|湧水
片羽八幡湧水(東御市)と黒耀水(和田村)
 片羽八幡さまの湧水は見事なケヤキの大木の下に湧き出し、古くから地域の飲み水、生活用水、かんがい用水として活用されてきたそうです。写真ように、湧き出し点は保護されていて良く見えませんでしたがきれいな水が豊富に湧き出していました。
 明治11年に北陸地方の巡幸が行なわれ、明治天皇一行は、碓氷峠越えて信濃入りし、牧家で休憩された時に、明治天皇へ献上したこともある由緒正しい湧水なので「ご膳水」とも呼ぶようになったそうです。
 大正時代には、近くの小学校の位置決定にあたり、この湧き水を教育的に活かそうとの配慮もあったそうです。環境変化の関係で今は飲めません。
黒曜の水(黒輝石湧水)
中山道の難所和田峠の頂上付近が男女倉(おめくら)。そのバス停わきに水場があります。男女倉山(おめくらやま1776m)からの湧水をバス停留所(右上)まで引いたもので、黒曜石に磨かれたて黒耀水とも言うそうです。この日も水汲み客で賑わっていました。この付近は黒曜石(黒耀石)の産地で,それにちなんで名づけられた。








2008/08/03 7:06:24|町並み
国史跡「和田宿本陣」

 和田宿内には屋号を書いた看板の出ている家が多く、殆どが旅籠を営んでいたらしい。「かわち屋」(歴史の道資料館、国史跡)は出桁造りでその二階家は上客向けの旅籠だった。その斜向かいに問屋だった「山本屋」、旅籠だった「大黒屋」、少し行くと、門付きの旅籠「羽田野」、その向かいが本陣の(国史跡和田宿本陣・復元、一番上と二番目)少し離れたところに脇本陣の翠川家。
 和田宿本陣は文久元年(1861)3月に宿場の大半を火災で焼失し、前身の本陣もこの際に灰燼に帰したが、11月の皇女和宮降嫁( 第十四代将軍徳川家茂へ御降嫁)の宿泊地とされていた和田宿では、この使役を全うすべく幕府の拝借金を得て、宿場の復興が行われその中心建物として再建されました。
 本陣のガイド氏に質問をされました。大名行列で脇本陣(家老と上級武士が宿泊)に約50人宿泊すると本陣に何人泊りますか。10人と答えるといい線ですが、殿様と小姓の三人とのこと。湯船も持参。大名にとっては莫大な金食い虫。
 本陣建物内大名の宿泊「座敷棟(上から三番目)」は第一、第二、第三、第四の座敷になっていました。一番下の写真の籠は、庄屋の娘が嫁入りに使用した時に使用されたもの。
 昔読んだ藤村の「夜明け前」にも名主から見た皇女和宮降嫁が中山道を通った様子が書いてありました。
  東海道ではなく中山道にしたのは、この縁組の反対派が、和宮奪回を企んでいると言う噂もあり、より危険性の少ない中山道にしたそうです。、皇女和宮降嫁総費用は、空前絶後、今のお金にして150億円。家茂も和宮も病弱だったらしいですが、同い年の二人には夫婦愛が芽生え仲睦まじく、とりわけ、家茂は宮を理解し大事にしたようです。
NHKの大河ドラマ篤姫にも登場するかも。







2008/08/02 3:48:26|町並み
中山道「和田宿((わだしゅく))」

 現在の長野県小県郡長和町和田は、標高820メートル余りの高地にある静かな山里です。 
 江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年(正徳6年)に、江戸幕府の通達により中山道に統一されたとのこと。しかし作家でも中山道という字を使用している人もいます。
 和田宿とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十八番目の宿場です。長和町和田の中心部一帯は、難所であった和田峠の入口にあたります。次の下諏訪宿まで五里十八町(約23km)と距離があったため、荷駄を運ぶための伝馬役が最盛期には70軒ほどあった。現在も旧本陣や古家屋が現存し、修理保全されていますが、川越等と比較すると写真を撮るには電柱が邪魔になります。近いうちの産物に黒曜石の産地がありますのでながします。
 上から三番目はお歯黒を染め液をいれる容器です。お歯黒(おはぐろ)は明治時代以前の日本や中国南東部・東南アジアの主として既婚女性、まれに男性などの歯を黒く染める化粧法で、一説には虫歯予防ためとも言う人もいます。
 一番下は本陣の石置板屋根です。クリの木は水に強いので、板三枚を重ね、釘を使わずに石を置いたそうです。本陣の土台も栗の木を使用していました。蓼科から近いので、訪れては。