くさびら紀行

日ごろの興味をもったキノコ・植物・歴史町並み等を書きとめます。
 
2008/09/11 2:46:23|きのこ
富士山の三兄弟「ショウゲンジ(正源寺)」

 ショウゲンジ(正源寺)の名前の由来は、信州か岐阜あたりのお寺の名前とか。このキノコが大好きな坊様がいて、寺の名前がキノコの名前になったとされて言われてます。
 長野では「こむそう」,広島では「こむそうなば」、岐阜では「こもっかぶり」と言われます。
 傘に注目してください。成長しかけのものでは、白い柄の先端に、開く前の傘がポコンという感じで付いています。その姿が、尺八を吹き深編笠をかぶって旅をする虚無僧に似ているため「コムソウ」、西日本では「ボンサン(坊さん)」などと呼ばれているそうです。
 傘は径5-8cm、表面は黄土色―黄土褐色で放射状のしわがあり、初め白―帯紫色絹状の繊維におおわれます。ヒダは類白色のち,さび褐色、やや蜜。柄は傘より淡色、膜質のつばと不完全なつぼがあります。一番下はツバで単位は1CM。
 分類ではフウセンタケ科ショウゲンジ属。
 秋にアカマツなどの針葉樹に、時には広葉樹にも発生します。
柄は硬く締まっていて、極めて歯切れよい。さわやかで上品な味わいがあり、薄い味付けの料理によく合う。お吸い物にも合う。
富士山の四合目にある山小屋ではショウゲンジ入り味噌汁が400円でおいしかった。







2008/09/10 1:30:52|植物
フジアザミ(富士薊)とメイゲツソウ(明月草)

昨日、川越からバスで富士山・御中道めぐりに行ってきました。
一番上の写真は小御岳(こみだけ)神社から。二番目はフジアザミ(富士薊)葉も花も大型です。花の直径は 7cm近くあり,日本産のアザミの中では最も大きな花をつけます。富士山の周辺に多いということで富士薊という名前がついたそうです。
 一番下の写真はメイゲツソウ(明月草) 、タデ科で富士山の5合目付近にはメイゲツソウや オノエイタドリ 、オンタデ などイタドリの仲間の群落がいたるところで見られます。オノエイタドリ の赤色が強いものがメイゲツソウと呼びます。
 バスの運転士によれば年間50回以上行ってますが、こんなに快晴はめずらしいとのことで、御中道から八ヶ岳、北岳も見えました。
しかし。午後2時頃に大沢崩れ付近でガスが発生してきましたので大沢休泊所まで行き、そこから引き返しました。ガイドブックによれば、後1分で大沢崩れに到着するのに残念。
 案内板が少なすぎる。特に「御庭山荘」の前に分岐点の案内板を作ってほしい。私たち以外にも迷っている人もいました。
 御中道から携帯で、四合目に待っているバスに連絡がとれませんでした(圏外とのこと)ので、技術立国の日本と言えるのか疑問になりました。










2008/09/08 4:32:47|植物
富士山・御中道めぐりに

 川越からバスで富士山・御中道めぐりに行くので下見をしてきました。ガスがかかって富士山の頂上が見えませんでした。
 御中道とは富士山中腹の五ー六合目付近(標高2,100ー2,880m)を通って山体を一周する登山道です。
 今回は、スバルライン河口湖5合目から大沢崖れまでのコースで約4時間35分ですが、5合目に戻らず4合目駐車場にいくのでかなりの時間短縮になります。また、途中から奥庭に下りるコースもあるので2班に分かれる計画です。バスは奥庭の4合目駐車場で待っています。
 富士山を間近に仰ぎ、本栖湖、河口湖を見下ろし、遠く南アルプスを望む絶景の遊歩道。周囲は、シラビソ、コメツガ、コケモモなど高山植物の宝庫を見ながら歩くコースです。時間がなければ、奥庭(高山植物も多く箱庭を思わせる自然の庭園もある)だけでも歩いてみても楽しめます。「御中道を歩かずして富士山を語るなかれ」と言う人もいます。雨天決行なので、雨の場合は温泉と県立美術館とワインコースの計画。
 9月になると新宿発のバスがなくなりますので、高雄発7時40分で河口湖駅、そこからバスで五合目に行きました。
 一番上の写真は御中道に入ったところで、御中道の看板があります。つぎの写真はコケモモとミヤマホタルブクロ。一番下はシロヌメリイグチです。

 







2008/09/07 2:29:26|川越
川越市の蔵造り資料館の展示

川越の蔵造りの特徴は、倉庫としての蔵でなく、店舗を蔵造りとした「店蔵」であるといえます。通りに面した商家の顔である店舗を蔵造りにすることで、周辺からの類焼を防ぎ、裏につづく土蔵とあわせて敷地内への飛び火を防いだと考えられます。
箱棟(上から二番目の箱の戸が開いている)は、屋根は最上部に壁のような箱棟がそそり立っており、一層の迫力を醸し出しています。箱棟は木製の箱状の芯に、漆喰などを塗り重ねて作られており、屋根を最上部で支える棟木の保護のためにあります。川越の蔵造りの箱棟は本来の機能のほか、箱棟そのものの装飾性が高くなっており、過剰なほど巨大な箱棟が並んでいる様は壮観です。
 箱棟の両端には鬼瓦(うえから三番目)が配されています。鬼瓦は奈良時代頃から発達し、寺院建築を中心に普及しました。室町時代以降は、激しい形相こそ強い力の表れと考えられ、角は徐々に大きくなり、鼻・口も大きく両側に開き、その表情は激しさを増していきました
 箱棟両端の鬼瓦の後ろに、大きな高まりを見ることができますが、この部分をカゲ盛(上から三番目の外側の白いところ)といいます。巨大化した箱棟の両端に鬼瓦を設置すると、鬼瓦も巨大なものが必要になりますが、その整合を図るためにカゲ盛を配して、箱棟と鬼瓦の接合部にボリュームとバランスを与えています。
 一番下の写真は普段、通風のため、開けられていますが、火事の時はきちんと閉めます。
 明治26年の川越の大火(約1300戸が延焼)の後に建築されたので、かなりの防火施設がなされています。視点を変えて川越を散策してみませんか。
蔵造資料館のHPを活用しました。span>







2008/09/06 0:14:06|川越
江戸時代の消火器「龍吐水(りゅうどすい)」

 半日、川越市の蔵造り資料館に行ってきました、その資料館は、明治26年(1983)の川越大火直後、類焼を免れた数軒の蔵造り建物や東京の日本橋界隈の商家を参考に、当時煙草卸商を営んでいた小山文造(屋号「万文」)が建てたものです。
入るとすぐに、下に「穴蔵」(上から二番)があります。一坪半ほどの穴蔵はいざと言う時に商品などを投げ込んだ防火と収納の二つの役割があります。
 その展示展の中に龍吐水(りゅうどすい)があり、龍吐水(上から三番目)は、享保年間(1716-1736年)にオランダから渡来したともいわれ、ま た、宝暦四年(1754)に長崎でオランダの技術者の指導で作られたという説もあります。 それまでは「水はじき」「生龍水」などと呼ばれる大きな水鉄砲(一番下)のような道具を 使っていた。龍吐水はそれに水槽を結合したようなもので、わが国の消防ポンプのはしり 。 しかし、龍吐水の欠点は、吸水装置がないため水運び人足(水手)を必要とし たことであった。それでも、鳶などの火消人足が家屋を引き倒して延焼を防ぐ、破壊消防 が中心だったこの頃には、その威力が認められた。とはいえ龍吐水は水圧が低く放水量も少なかったため、燃え広がった火事を消火できる ようなものではなかった。使用方法は、火事場に駆けつけた纏持ち(まといもち)と纏(まとい)に水を掛ける程度 のものであった。
この龍吐水は、江戸時代中ごろから明治十年代にかけて使用されてきたが、明治17年 (1884)末に、国産の腕用ポンプ(上から三番目の奥の写真)が量産されるようになって、廃止されることになったそうです。
川越も江戸と同様に火事が多かった。