くさびら紀行

日ごろの興味をもったキノコ・植物・歴史町並み等を書きとめます。
 
2008/10/19 5:13:58|植物
オトコヨウゾメ(男ようぞめ)
 ヨウゾメとはガマズミの古名です。ガマズミの実が食べられるのに対して、この実は苦くて食べられないので「男」をつけてオトコヨウゾメになりました。ゼンマイも雌株(栄養葉)は食用になります。雄株(胞子葉)は食用にならず、オトコゼンマイと呼ばれます。地方名はコソネ、ヨソゾメと言う。実は写真のように赤く熟し、核果は卵形ー楕円形で長さ8-10mm。葉の形は卵形で先がとがり、対生、長さ4-7cm、鋭鋸歯です(右上)。
です。押し葉にすると葉は見事な黒色になります。  
 生育地は小川、秩父、比企の丘陵地の雑木林内で落葉低木。
 分類はスイカズラ科 ガマズミ属







2008/10/18 4:35:35|川越
蔵造りの「服部民俗資料館」

 服部住宅は文政5年(1822年)に建築されたとそうです。照室内を見ると、母屋の一階はかつて照降商(てりふりしょうと読み、履物と傘を扱う商売)を営んでいたころの店構えの様子が伺えます。 げたの陳列棚や傘をつるした折くぎや草履の鼻緒をつるした折くぎなどが残っています。明治期より薬種商を兼業したと言う。
 明治26年の大火で店が焼けても蔵は残ったので現在の展示ものがあるとのこと。
 下駄の時代ではないので、昭和59年に民俗資料館を開館。嘉永5年(1852年)の雛人形(春に展示)、慶応元年(1865)の五月人形、履物の形象看板、安政期の雪駄、薬の看板、十組問屋関係文書など展示しています。上から二番目の写真は竹製の和ロウソクののいれ(旅道中)で持参で、真ん中高山、両側が四国の内子宿で作られたもの。上から三番目は天保年間に作られた藤表。一番下は照降商の傘。無料なので是非川越に来たら寄ってみると面白いです。出来たらご主人の説明を聞くとさらに面白しろい。ただ、なんにも買わずに出るのも気が引けるかも。そのうち明治期より薬種商も載せます。
 今日から約100万人が訪れると言われている川越祭り。
 







2008/10/16 4:10:20|きのこ
本物の「ホンシメジ(本湿地)」

 「香り(匂い)マツタケ、味シメジ」という有名な句がありますが、この味シメジとは写真のホンシメジのことを指します。すべての写真はホンシメジで一番下は湯がいたもの、上から三番目は柄を半分にきったもので、基部が膨らむ。
 ホンシメジの地方名クロシメジ、キンシメジ、ギンシメジ、ゴホンシメジ等かなりあり、マツタケとともに古来から日本人が親しんできたキノコです。
 シメジと言えば本来キシメジ科のキノコ、とりわけキシメジ科シメジ属のホンシメジを指す。生きた木の外生菌根菌(樹木とキノコの共生で根と菌糸が繋がっています)であるために栽培が非常に困難であり、ほぼ天然物に限られ稀少なため高級品とされて、ほとんど流通していません。
環境は、秋、水はけのよい 松まじりの雑木林の地上に発生します。
 かつて「シメジ」、「ツクリシメジ」「味シメジ」「信州しめじ」などでの名で全国的に流通しているキノコはヒラタケ科ヒラタケ属のヒラタケの栽培品であります。上記のような本来的な意味でのシメジとは全く別のものです。このねじれは、栽培ヒラタケが栽培困難なシメジ属のキノコの代用品として「シメジ」の名で売り出され、そのまま定着してしまったことに由来します。現在単に「シメジ」と言った場合、この栽培ヒラタケを指すことが多いです。








2008/10/15 3:23:14|町並み
司馬遼太郎の「峠」により有名になった河井継之助の記念館(只見町)

河井継之助を描いた司馬遼太郎の「峠」を読み感動して見学に来る人が多い。河井継之助は武装中立の姿勢を貫こうとしたが、小千谷談判で決裂したので、やむを得ず長岡の戊辰戦争になった。
 パンフレットよれば、慶応4年(1868年)長岡藩は参戦に踏み切り、さらに奥羽越の諸藩同盟を結成、総督として善戦(落城した長岡城を取り返す)したが5月長岡城が落ち、その後7月25日の戦いで傷ついた。継之助は親藩会津に逃れ再起をはかるため、千数百名と共に八十里越を会津に向かった。山越えは難渋を極め、山中に一泊して8月5日只見に着き、傷の手当を受けた。8月12日幕府医師、松本良順のすすめで会津若松に向けて出発、途中塩沢、矢沢宗益宅に投宿した(上から二番目は終焉の地)。継之助は、すでに死期を予感し、従者松蔵に死期の準備を命じた。
 八十里越は会津と越後を結ぶ交通の難所なので一里を十里にたとえて呼ぶそうです。
 従者松蔵は彼の遺言により、のちに阪神電鉄(阪神タイガース)の創立者になります。上から三番目は当時日本には三門しかなかった機関銃のガトリング砲です。
 ガイドの説明によれば戊辰戦争により長岡の町は焼かれたので彼の墓には刀傷があるそうです。
 話しはとびますが、小林虎三郎は、戊辰戦争のとき非戦論者で河井に反対したが受け入れられず、敗戦後は長岡復興に努力した。特に、支藩三根山藩から送られた救援米百俵を「食えないからこそ学校を建てるのだ」といって、その費用をまわした話は山本有三の戯曲「米百俵」で全国的に有名です。
 親藩川越藩は戦わず降参したので蔵造りが残ったと感じました。




 







2008/10/14 2:19:28|きのこ
国産マツタケご飯
前前回、中国産マツタケご飯(9月2日ブログ)をつくりましたが、香りの面でがっかりでした。今回は川島産の新米の「彩かがやき」を使って、マツタケご飯をつくりました。奥会津(金山)で仲間がゲットした取立てマツタケをアルミで包み焼いて、細く裂いたものを炊き上がった直前のご飯の上に載せました。マツタケの歯ごたえも上々。香りも期待どおりでおいしかった。
 川の博物館でもキノコ展の特別展示をしています。そのうち載せます。