くさびら紀行

日ごろの興味をもったキノコ・植物・歴史町並み等を書きとめます。
 
2009/01/17 5:48:08|川越
奥貫友山(長屋門、市重文)
 奥貫友山は川越市久下戸に生れ、永年名主をつとめていた。
 寛保2年(1742)8月、関東一円に、大風雨があり、荒川、利根川などの河川が決壊氾濫して未曾有の大洪水となった。川越領内でもその被害は村の数28村に及んだ。罹災者の数は近郊を含めると10万人を超えたという。このとき友山は率先して救助にあたり、米25俵、麦70石、雑穀266石等すべて自己私財を農民に拠出。16000人の命を救ったという。川越藩主より、狩野周信筆の鷹絵1幅を賜ったという。その後、農民たちの一揆がおこったときも奥貫家は襲われなかった。
 「木を植えるなら榛の木、鳥をかうなら鶏を飼え」いう言葉を残しました。榛の木は水に強く、実は染料になります。










2009/01/16 3:19:25|植物
ロウバイ(蝋梅)
秩父の宝登山で有名なロウバイが近所の庭に咲いています。1-2月頃に、葉が出る前に咲き、香りもよく、ロウバイはとても魅力的な花です。
 ロウバイの謂れは、花色と花弁の質感が蝋のようであるため、また老木になると蝋が垂れたような幹肌になるから。黄色の花が蜜蝋に似ていて、それが小枝いっぱいに咲く風情が梅を連想させるからとも言われています。
 ロウバイ(蝋梅)は別名:トウバイ(唐梅),カラウメ(唐梅)で、江戸時代初期に中国から渡来したから。







2009/01/14 8:43:15|町並み
小田原文学館と白秋
 大正から昭和初期にかけて、小田原の温暖な気候を求めて、多くの文学者が居住しました。谷崎潤一郎など、その顔ぶれは日本の文学界を代表するものです。彼らの資料を展示しているのが小田原文学館です。庭園には詩人の北原白秋の作品がある白秋童謡館(左)と碑(真ん中)があります。この周辺には立派な屋敷がありました。
 右はかっての箱根口碑。その箱根口は箱根駅伝の中継地です。
 その他に松永記念館(電力業界)日本庭園の傑作「古希庵」等。







2009/01/13 8:29:40|町並み
小田原城歴史見聞録館「春日局」と喜多院の春日局化粧間
 小田原城歴史見聞録館は小田原城の始まりから、現在に至るまでの歴史を、模型や映像で分かりやすく展示してあります。
「江戸時代ゾーン」では、展示室内に当時の建物を模造して、東海道屈指の宿場町だった小田原のまちを紹介しています。その中に、春日局を紹介していました。
 稲葉 正勝は稲葉正成の次男(春日局との間では長男。)、母は春日局(斎藤利三の娘)。実母の春日局が3代将軍徳川家光の乳母となったことから、正勝も乳兄弟として幼少時より家光に小姓として仕え、小田原城主になりました。
 川越の喜多院に春日局化粧間と家光誕生の間が江戸城唯一つの遺構(江戸の大火を免れた)として残っています。
左は二宮尊徳の神社。










2009/01/12 9:04:49|町並み
関東大震災で崩れた「小田原城址公園石垣」
先日、いきがい松山で「地震と地盤災害」の話を聞きましたので小田原城址公園の石垣をのせます。地元の人は江戸時代の安普請なので壊れたという。「後北条」びいきでそういっているのかも。
 小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました(真ん中)。
 現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門が復元されました。平成18年10月に、「日本の歴史公園100選」に選ばれました(小田原城址公園より抜粋)。