くさびら紀行

日ごろの興味をもったキノコ・植物・歴史町並み等を書きとめます。
 
2009/02/28 8:11:05|町並み
白川郷(荻町も含む)の合掌造り
  雪の中の合掌造りを見に行ったのですが、雪が少なくてホットしました。 
 合掌造りとは小屋内を積極的に利用するために、屋根裏を作業場として利用していたことです。又首構造の切妻つくりの屋根とした茅葺家屋です。切妻つくりの開口部で風と光を取り込み、蚕の飼育(左の写真)に適した環境が創り出されていました。
 白川郷(荻町も含む)はなぜ世界遺産になったのでしょうか。それは、合掌造りがまとまって残りかつての農村景観を保持しいいるから(左の写真)という。地域内の資源を「売らない」「貸さない」「壊さない」の三原則で白川郷を守っているそうです。







2009/02/26 21:02:53|町並み
国史跡「高山陣屋」ないの傘連判状
  写真はすべて高山陣屋の展示です。左の写真は傘連判状(からかされんぱんじょう)です。江戸時代の百姓一揆などに代表される署名形式。単に傘連判とも。通常の連判状では最初に名前が書かれているものや上部に書かれているものが責任者とされがちなのを回避して、皆が中心より放射線状に署名した。特に首謀者(多くは名主)を隠すためでもす。
 高山陣屋とは、江戸時代に郡代・代官が治政を行った場所で、役所や郡代(代官)役宅、御蔵などを総称して陣屋と呼びます。 飛騨代官は安永六年(1777)に飛騨郡代に昇格し、当時4ヵ所あった郡代役所の中でも重要な直轄地となりました。 幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所の中で、当時の建物が残っているのはこの高山陣屋だけです。全国で唯一建物が現存する遺構で、昭和4年には国史跡に指定されました(高山陣屋より)。
 板葺(いたぶ)きの上に石を置いて、板が風で飛ばないようにした屋根のこと。このような屋根は、瓦(かわら)がまだ普及せず、板がもっとも信頼できる葺き材料で、しかも釘(くぎ)などがそれほど豊富に使用できなかった時代の生活の知恵です[執筆者:山田幸一]







2009/02/25 9:01:44|町並み
飛騨高山「飛騨牛の刺身」観光
 新幹線とバスで金沢と世界遺産白川郷・飛騨高山にいってきました。飛騨高山のグルメとしては、飛騨牛ステーキ、ラーメン、 朴葉味噌焼き、地酒、みたらし団子など素朴な味わいを楽しむことができました。左の写真はせんべいの上の飛騨牛の刺身。並んでましたので食べてきました。真中は飛騨牛ステーキで100g3500円でした。その通の話では高級品は料亭にながれ、こんな価格ではないとのこと。牛肉もDNA鑑定時代(飛騨牛の証明のため)とのことですが、本当にできるかどうかは疑問です。牛誕生の産地はまちまちです。餌等の違いにより飛騨牛ができるから、つまり環境変異だから。右の写真の古い町並みがすてきでした。







2009/02/24 9:07:51|町並み
岩槻城の時の鐘と黒門
 岩槻城の時の鐘(左の写真)は川越と違い、現在は朝夕二回6時に鳴らします。その鐘は寛文二年(1671)藩主阿部正春が武家屋敷と町人町の境の出入り口に設置しました。
 真ん中の写真は岩槻城城門(黒門)。門扉の両側に小部屋が付属する長屋門です。岩槻城廃城(1871)後埼玉県庁や知事公舎の正門として利用されました。昭和45年に現在の岩槻城址公園に移築されました。右の写真は岩槻城の空堀と堀障子(写真の手前の横の盛り上がり付近の下?)です。
 大構え(おおかまえ)とは(以下岩槻の観光ガイドより)
総構(惣構)、総曲輪(総郭)、総堀(惣堀)などともいい、城と城下町一帯も含めて外周を堀や土塁で囲んだ、日本の城の構造のことです。城の防御力の強化のほか、城下町の保護にも大きな役割を果たしました。
 岩槻城の大構えは、天正年間(1580年代頃)に、小田原北条氏が、豊臣政権との緊張が高まるなか築いたものとされています。







2009/02/21 21:09:08|町並み
B級豆腐ラーメン
  岩槻城址公園で豆腐ラーメンを食べてきました。値段は500円でおいしかった。このラーメンは、埼玉県内14市2町の18グルメが競う「第2回埼玉B級ご当地グルメ王決定戦」(3〜5日)がさいたま市大宮区の大宮ソニックシティイベント広場で開催されました。さいたま市の「豆腐ラーメン」が4日、初優勝を果たした。昨年に続き連覇を目指した深谷市の「煮ぼうとう」は2位、熊谷市の「雪くま(かき氷)」が3位となった。グルメ王は3、4両日の来場者(約5万人)の投票できめられた。2/23は休みです。(財)埼玉県産業文化センターより