くさびら紀行

日ごろの興味をもったキノコ・植物・歴史町並み等を書きとめます。
 
2009/06/15 7:40:30|町並み
越後浦佐毘沙門堂。前日の続き
浦佐毘沙門堂は807年(大同2年)、 坂上田村麻呂が東夷征討のおり、祈願して創建したと伝えられています。左の写真の山門は1820年(文政3年)に起工したもので、日光の陽明門を型どりしたもの。中央の写真は谷文晁作で双竜図板絵で、山門の天井に描かれたもの。右の写真は不動明王で石像仏としては日本最大のものと言われています。







2009/06/14 8:30:40|町並み
「雲洞庵の土踏んだか」前日の続き
越後の国では昔から「雲洞庵の土踏んだか」と「関興庵の味噌なめたか」と言われいます。それは、諸国の修行者が、この二大禅道場で曹洞宗と臨済宗の禅を学ばなければ一人前の禅僧とは言われないので、互いに言い合ったそうです。
 赤門(左)より本堂に至る石畳の下に法華経を一石一字ずつ印し、その経石(真ん中)を敷きつめたといわれてます。  
 雲洞庵は「天地人」の主人公、与六(直江兼続)と喜平次(上杉景勝)が少年期に学問を学んだ地です。当時の住職は北高全祝や通天存達でした。兼続の兜の前立ての「愛」とい文字は、この通天存達の教えからなると言われています(雲洞庵のパンフレット)。
 この赤門より入る時は左進右退。右の写真の「左進右退」は「神・仏」に対して非礼とならないように慎重に足を運ぶという意味で、古代中国の『礼記・曲礼』によりとガイドの説明。







2009/06/13 7:57:55|町並み
まず最初に味噌を嘗め、それから寺まいりの関興寺
 越後湯沢の臨済宗円覚寺派の関興寺にいきました。この寺は「味噌なめたか」で有名です。質素を基本とする生活には味噌は欠かせないとあって、修業僧のために大量の味噌を作って蓄えていました。
 上杉謙信の急死で、景勝、影虎の間で家督争いがおこり、その兵火にあって堂宇が焼失。関興寺に収められていた上杉氏寄進の大般若経六百巻は味噌桶に埋められたので難をのがれました。以来ご利益のある味噌で「味噌なめたか」と言う言葉が生まれました。まず最初に味噌を嘗め、それから寺まいり。中央は味噌こね鉢。







2009/06/12 8:17:51|きのこ
ベニヒダタケ(紅襞茸)
ベニヒダタケは普通広葉樹の朽木上に発生し束生しますが、これはウッドチップに発生していました。これも森の掃除やさんでウッドチップを森に散布することによって菌類の発生が異なり、環境がかわります。
 襞(ひだ)が紅になるのも特徴でウラベニガサ(裏紅傘)科ウラベニガサ属です。右の写真のように傘表面は鮮黄色で周辺に条線があります。柄は黄白色で繊維紋。初夏に顔を見せる可憐なきのこでくせはない。季節感は味わえるキノコと書いてあります。







2009/06/11 8:26:31|きのこ
オオノウタケ(大脳茸)
 雨が降ると大きくなるのはキノコ、写真のように帽子よりも大きくなって、ウッドチップに発生していました。このキノコはホコリタケ科ノウタケ属でノウタケより大型で色は暗色。右の写真のように人の脳の皺に似ているので名前が付けられました。写真を撮っている時に、「食べられますか」と聞いてきた女性がいましたので、食用ですというと驚いていました。割ってみて肉が真っ白な幼菌のみが食用で鍋物汁物に合うと書いてあります。