くさびら紀行

日ごろの興味をもったキノコ・植物・歴史町並み等を書きとめます。
 
2009/11/04 6:46:08|町並み
スリーデーマーチ参加の「民族芸能祭」
 昨日も地域創造の仲間と一緒に、楽しく第32回日本スリーデーマーチに参加してきました。歩いたのは高坂駅から千年谷公園まで。東松山市民族芸能祭をしていましたので、神田囃子流派の市指定無形民俗文化財の「正代囃子」(左上)、和太鼓の保存会「武蔵流松山太鼓」をみてきました。右上は太鼓をたたく前の練習風景です。"民族芸能の灯"を守るための貴重な公開でした。







2009/11/03 4:09:16|町並み
続き。「第32回日本スリーデーマーチ」
来日外国人参加者名簿を見るとオランダ、台湾、ロシア、オーストラリア、ドイツ等で、不況のため外国の人の参加が少なくなっていました。森林公園内の無料休憩所では梅干しが美味しかった。また、公園内の日本一のぽんぼこマウンテンで子供たちか楽しそうに遊んでいたのが印象的でした。ゴールに着くとそこで若者が「よさこい」を踊っていましたので100円でコーヒーを飲みながら見ていました。







2009/11/02 2:39:25|町並み
はじめて参加した「第32回日本スリーデーマーチ」
いきがい東松山の校友会の仲間と一緒に、第32回日本スリーデーマーチに参加してきました。10km、20km,30km,50kmkコースがありしたが、当然10kmコースです。森林公園でおにぎりを食べ昼寝をしてやっと完歩しました。以前、50kmのコース参加した友人の話しでは平均時速6kmで歩いたという。とても私には歩けませんので感心しました。川越なので登録代が1500円かかりましたが、大会を運営するために、あれだけ人を動員するのだから当然と感じました。左下は沖縄の久米島の「2010年1月16日-17日のんびりウォーク」キャラバン隊







2009/10/31 5:38:17|町並み
幕末にアメリカへの直輸出の狭山茶
幕末に横浜が開港すると、お茶は生糸に次ぐ重要な輸出品となりました。翌年にはこの地域の茶も輸出しました。明治8年には現在の入間市近在の有力茶業者により「狭山会社」が設立され、アメリカへの茶の直輸出業務や、製茶農業の育成を行いました。左上の写真はこの時の「狭山会社」茶袋ラベル。明治26年にはアメリカのシカゴで開催された世界コロンビア博覧会で、宇治茶に次ぐ二番目に入賞しました。「狭山茶」の名称はこの頃から定着してきたと言われてます。その後、1890代にセイロン紅茶に押され、市場の競争力を失いました。それは高コストため。この難問題を解決したのが医師の高林譲三の製茶機械発明でした(左下)。これは良質の日本茶の輸出して国益を増大させたいという思いから。上段の真中は当時のイギリスの茶器







2009/10/30 2:43:46|川越
10/28の続き。お茶編(V)「重闢茶場碑」
狭山茶復興のへの挑戦の証拠の碑文があります。入間市出雲祝神社に行きました。天保3年(1832)の碑文「重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)」を見てきました。これは宇治の蒸し製煎茶法による新たな茶づくりを確立した狭山茶業復興の記念に建碑されました。碑文の「重ねて闢く」とは、一度閉じた茶作りの扉(「河越茶」衰退)を再び開くという「復興」の意味です。また、江戸の茶商山本徳潤(山本山の祖先)と吉川温恭(10/28)等があい謀り、狭山丘陵の麓に開き、復興させた碑です。茶の歴史、武蔵河越茶から狭山茶に至る経緯、復興に尽力した人物、茶の効能、茶づくりに対する心構えなどが纏められています。上段真中は博物館の展示。