救済会 憩の園在日協力会

1958年、ブラジル社会福祉法人救済会「憩の園 (いこいのその)」は、主に日系人のお年寄りを対象とした老人ホームとしてサンパウロ市に開園し、その役割を担って参りました。 しかし、ブラジルの国状および日系人を対象とする施設の性格上、「憩の園」運営の現状は、近年大変厳しいものとなっています。 余儀ない事情で「憩の園」に老後を託した在園者の方たちへ、日本から温かい支援をお届けし、余生の日々に懐かしさと喜びを味わっていただけたらと、日々願っています。
 
Jun.13. 紀宮さま 憩の園ご来園時の貴重なお写真
以前にもお伝えしましたが、憩の園はこれまでに3度皇室を
お迎えする栄に浴しました。
 
天皇皇后両陛下をお迎えしたのは、皇太子殿下時代の1978年6月と1997年6月、
そして紀宮さま(黒田清子さま)をお迎えしましたのはご結婚される前の、
今からちょうど20年前の1995年11月15日でした。
 
皇后陛下は、初めて憩の園へご訪問賜りました際、
遠い日本からブラジルに移民として渡った人々の労苦を想われ、
入所者一人一人に心温まるお言葉をかけて下さいました。
 
また、1997年に再度ご訪問賜りました際には、
日本に一家で働きに来ているブラジル日系人のことを
とても憂慮されていらっしゃったそうです。
 
ご承知の通り、1990年頃から、日本には多くのブラジル日系人が、
働きに来るようになりました。
しかし、うまく日本語が話せないため、居場所を失ってしまうという
問題がありました。
皇后陛下は、国内の学校に通う子供たちのことを
特に憂慮されていたと伺っています。
 
皇后陛下は歌会始に、次のようなお歌を詠まれました。
 
「移民きみら 辿りきたりし 遠き道の 
                           イペーの花はいくたび咲きし」
 
イペーはブラジルの国花で、黄色い花が咲きます。


 
紀宮さまは、憩の園の訪問時に
「憩の園や初代会長の渡辺さんのことは母(皇后陛下)から良く伺っておりました」
と話されたそうです。

※渡辺トミ・マルガリーダ:救済会・憩の園の創始者。「ブラジル日系移民の母

 
在日協の掲示板にもたびたび登場するカメラマン松本浩治氏の写真集「移民T」には、
サンパウロの東洋人街で、紀宮さまのご到着を、今か今かと待ち焦がれている人々の
写真があります。

 
沿道の人々のほとんどは、紀宮さまの御誕生を日本でお祝いされなかった方々と
推察します。
紀宮さまをこれからお迎えする皆さんはとても生き生きと、
喜びに満ちた表情をされていますね。

〈救済会 在日協力会   H.Takahashi







May.17. ブラジル移民の方々 第4弾
在日協事務局掲示板では「ブラジル移民の方々」シリーズ第4弾として
サンパウロ新聞記者の松本 浩治 氏の写真集「移民T」の作品を
紹介しています。 今回は、日系人の多いサンパウロにて撮影された,
男性6名の写真です。
 
移民としてブラジルで生活されて、幾多の困難、試練を乗り越えて
今日があると思いますが、皆さん何とも言えない柔和な表情をされています。
 
また、「この写真は本当にブラジルで撮ったの?」と思うのが、
大阪橋にかかる赤い大鳥居です。
提灯もぶら下がっていて、まさに日本そのものです。
 ※ カラー写真は以下をご参照 〜「南米一の大都会サン・パウロの魅力」より〜 
 
 
 
 
「大阪橋」は、商業都市「サンパウロ」と日本の商業都市「大阪」が、
姉妹都市として結ばれた記念に命名されました。
 
この大鳥居のある東洋人街(リベルダージ)は、かつては日本人街と
言われていました。
リベルダージには、今でも日本で売られているものは何でも揃っています。
日本の週刊誌・単行本や和菓子、油揚げ、みそ、ラーメン等々・・・
食品類の大半は、材料や製法、気候、水などが異なる現地で
作られていますので、 日本で作られたものとは微妙に違いがあります。
しかし、日系人やブラジル在住の日本人には懐かしい味として
非常に重宝されています。

 
 
在日協力会 会員募集
 







Apr.12. ブラジルの結婚式(協力会入会のご案内)

さわやかな春が訪れ、新年度がスタートいたし
ましたが、 皆様如何お過ごしでしょうか。
 
さて、4月の事務局掲示板では、憩の園に
勤務されている看護師さんの結婚式を
紹介しています。
 
ブラジルの結婚式は、通常 教会で行われ
ますが、写真からもお分かりいただけます
ように、教会以外で行われることもあります
 
日本でも由緒あるお宅やレストランなどで、
人前結婚式や披露宴を行うことがありますね。
 
日本のようにしっかりした招待客名簿がある
わけではなく、参加者が家族を伴い、
ラフな服装で自由に参加しています。
 
ブラジル式の結婚式に、
写真の中で参列してみませんか?
 
なお、2015年度 憩の園協力会 会員
募集いたします。
ぜひ温かいご支援を頂戴できましたら幸いです。
何卒よろしくお願い申し上げます。
 
救済会憩の園 在日協力会
 







Mar.09. 憩の園資料室
先月下旬に、北陸地方・四国地方・中国地方・山口・九州北部地方で、
春一番が吹いたとの発表が各気象台からありました。
三寒四温を繰り返し、春の足音が聞こえ始め、桜の開花が待ち遠しい
今日この頃です。
 
 
さて、3月の憩の園在日協力会事務局 掲示板では、
2008年7月に 憩の園園内に設置された
「憩の園資料室(Sala de Documentacao IKOI NO SONO)」
を 紹介しています。
 
「憩の園資料室」は、設立50周年記念事業の一環として建設された
「宮腰千葉太多目的ホール(Pavilhao Comunitario Chibata Miyakoshi)」
同時に2008年に完成しました。
憩の園を訪れた皆様に、渡辺トミ・マルガリーダ(憩の園創立者)、そして
救済会や憩の園の歴史が一目見てわかるような展示を実現したいという思いを込めて、
構想から11年かけて完成した価値ある資料室です。
 
掲示板の写真はあまり写りが良くないのでわかりにくいかもしれませんが、
資料室には多くの貴重な写真・資料が展示されていて、
まさに眺めているだけで憩の園の歴史が伝わってきます。
 

憩の園は、2013年に創立55周年(救済会60周年)を迎えましたが、この間
ブラジル日系社会の高齢者福祉において、大きなな役割を担ってまいりました。
その長い歴史の中で、3度皇室をお迎えする栄に浴しましたことは、
特筆すべきことではないでしょうか。
資料室にはその当時の写真なども展示されています 
 
天皇皇后両陛下は、1997年に再び憩いの園に足を運んで下さり、
入園者一人一人に心温まるお声を掛けていただきました。
皆、大きな感動に包まれ、生涯の思い出となりましたのは
言うまでもありません。
 
この資料室はどなたでも見学することができますが、
日本から訪問するには少々遠いところが難点ではあります。
しかし、もしサンパウロを訪れる機会がありましたら、是非憩の園へ
足を伸ばしていただき、資料室を見学していただきたいと思います。
 
憩の園入園者ならびにスタッフ一同、心よりお待ち申し上げております。

1978年
皇太子ご夫妻(現 天皇皇后両陛下)ご来園
右端は憩の園 創立者 渡辺トミ・マルガリーダ
 
1995年
憩の園を慰問された紀宮さまをお迎えする
渡辺トミ・マルガリーダ(当時95歳)
 
1997年 
再び憩の園へ足を運ばれた両陛下
 
写真:ニッケイ新聞から
http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/131221-e4colonia.html







Feb.03. Museu da Imigração(移民博物館)
ブラジルは、日本人はもとよりポルトガル、イタリア、ドイツをはじめ
多くの国の人々を移民として受け入れ、多民族社会・多文化社会を
形成してきました。
 
サントス港に着いた移民の方々が移民列車に乗り、最初に辿り着いた
のがHospedaria de Imigrantes(移民宿泊所)』です。
長い航海を終えてブラジルの土を踏み、ようやく旅装を解いた場所
です。
ここから移民の方々は、それぞれの配属地に散って行きました。
 
 
1998年、かつての移民宿泊所を『Museu da Imigração(移民博物館)』と
してオープンしました。サンパウロにやってきた移民の歴史がわかる
ように、博物館の内外にたくさんの移民にまつわる展示がありますので,
当時の雰囲気を味わうことができます。
 
データベース化された移民名簿を閲覧することも可能ですので、
かつての同船者を探す光景も多く見られます。
 
 
また、土・日・祝日だけですが、当時の移民列車に乗ることもできます。列車の中ではアトラクションもあり、観光者は楽しいひとときを過ごせます。
しかし、当時の移民の方々は、これから始まる移民生活に期待と不安を
抱きながら、どのような思いで車窓からブラジルの大地を眺めていたの
でしょうか?
 
 
敷地内には当時の移民の家( 小屋)が再現されています。
現在の住宅からはあまりにもかけ離れているものです。
庭には、日本人少女4人の等身大の写真が設置されていますが、
果たして彼女たちのその後の人生はどのようなものだったでしょう・・・
 
今月の在日協事務局掲示板で、移民博物館を訪ねた際の写真を
掲載しています。
当時の移民の方々の心情や生活を考える機会にしていただけましたら
幸いです。