救済会 憩の園在日協力会

1958年、ブラジル社会福祉法人救済会「憩の園 (いこいのその)」は、主に日系人のお年寄りを対象とした老人ホームとしてサンパウロ市に開園し、その役割を担って参りました。 しかし、ブラジルの国状および日系人を対象とする施設の性格上、「憩の園」運営の現状は、近年大変厳しいものとなっています。 余儀ない事情で「憩の園」に老後を託した在園者の方たちへ、日本から温かい支援をお届けし、余生の日々に懐かしさと喜びを味わっていただけたらと、日々願っています。
 
日野原 重明 先生を偲んで
昨年7月、105歳で天寿を全うされた日野原 重明 先生。

医師として生涯現役を宣言され、
多くの人々に力や希望を与え続けられました。



先生は97歳だった2008年に、
ブラジル日本移民100周年記念に際し、
「新老人の会」の方々とご一緒に訪伯され、

憩の園にもお立ち寄りいただきました。

在園者のお年寄りならびにスタッフ一同に
温かい言葉をかけて下さり、
庭園にブラジルの国花イペーを
植樹して下さいました。

「この花が咲く頃にまた参りましょう」
と仰って下さったことが記憶に深く残っています。


あれから10年…
イペーは3mの高さに成長しました。

先生はイペーの成長と憩の園を
今なお見守って下さっていると信じています。




在日協力会で発行している小冊子coracao最新号では、
この貴重な記録を綴っています。
ご興味のある方は、ぜひ在日協力会事務局へ
お問い合わせ下さい。

「憩の園」在日協力会事務局
TEL.03 3361 5679  infomailhisako@yahoo.co.jp 

ポルトガル語“coracao”の意味は「こころ」です。

coracao最新 ←Click







サンパウロの春
今年は春の訪れが早く、東京ではすでに花吹雪が舞っています。
これから入学式を迎える皆様には少し残念ですね。
 
ブラジル サンパウロでは、桜とイッペーの開花が春の訪れを告げます。
憩の園にも立派なイッペーの樹があり、在園者の皆さんは園内で花見を楽しむことができます。
「ブラジルの黄色い桜」などと形容されるイッペーの黄色い花は、ブラジルの国花です。
サッカーブラジル代表チームのユニフォームでもこの黄色はお馴染みですね。
しかし、イッペーの花色には、実は赤・紫・白・ピンクなどもあることをご存知でしょうか。
ピンクはまるで八重咲の桜のようですね。
 
しばしイッペーの花に見入っていただきたいと思います。

 







ブラジル移民の方々E

大いなる夢を抱いた日本人781名を乗せ​た笠戸丸​が、ブラジルのサントス港に到着してから今年で110年になります。

想像を絶する苦難​に見舞われながらも、日本人としての誇りを決して失わず、その勤勉さで多くの信頼を獲得していきました。

その真摯な取り組みは、ブラジル社会に大きな功績を残しています。


ブラジルでは​110周年記念を盛り上げるべく、各地で様々なイベントの計画がなされています。








2018/02/28 21:40:03|ニュース
《ブラジル》日系社会、統合時代の幕開けか

Feb.27.,2018. Nikkei Shimbun(ニッケイ新聞)より ←Click

「自力更生はもう無理ではないかと思う。それなら名誉ある撤退をしたい」――救済会顧問の大浦文雄さん(香川県、93)=スザノ市=は無念そうに、声を震わした。
 サンパウロ市近郊のグアルーリョス市にある老人ホーム「憩の園」(救済会が経営)は、創立者・渡辺マルガリーダ女史の救済精神を貫き、同じ健康状態なら経済的に貧窮した人を選んで引き受けるという福祉重視の方針を60年に渡って続けてきた。だがついに限界に達した。
 入園者77人に対して職員は99人もおり、毎月30万レアルもの赤字が発生。それを埋めるために、周辺に持っていた土地を切り売りしてきたが、もう土地はない。「伝統ある救済会を無残に潰すよりは、できれば日系団体に合併してほしい。合併できるとしたら援協しかないのでは」と大浦さんは考えている。
 その通りだろう。
 戦中に社会政治警察に拘束された日本移民を支援するために、1942年5月に発足した救済会。戦後移民の受入れや支援を目的に1959年1月、日本移民援護協会(現サンパウロ日伯援護協会=援協)が発足するまで、救済会はコロニアが一番苦しい時期に延々と移民支援をしてきた。
 当時の書類を見直して驚いたが、1942年から1961年までの9年間に、生活費や物資を支援した貧困者は延べ1万4581人、世話をした養老者が延べ6517人、孤児が延べ1069人、精神病者が延べ521人。つまり1942年1月にブラジル政府が枢軸国に外交断絶を宣言し、1952年9月に戦後初の君塚慎大使が赴任するまで10年間、「在留邦人保護」という本来なら日本政府の仕事を、一手に引き受けてきた民間組織だった。

「名誉ある撤退をしたい」と語る大浦文雄さん

「名誉ある撤退をしたい」と語る大浦文雄さん
 

 戦後移民が1953年に始まって援協が発足するのを受け、救済会は高齢化する戦前移民の問題に焦点を絞り、1958年4月25日に老人ホーム「憩の園」を開園した。その後いくつもの日系福祉団体が生まれたが、元祖は文句なしに救済会だ。
 憩の園の紹介パンフには「2012年までに1156名のお年寄りが憩の園で生活しました」とあった。つまり1千人以上がこの施設で看取られた。経済的な問題を抱えた人を中心に、大変な数の移民を看取って来たのが憩の園だ。ここがあったから穏やかな余生を送れた人がどれだけいただろう。先週、本コラム欄に書いた「援協は、移民の最後を看取る事業を」の流れにある話だ。
 大浦さんは「そんな施設だからこそ、皇族は3回もご訪問された。いわば〃コロニアの聖地〃といえるのではないか。合併したら経営は変わるだろうが、場所や建物、ドナ・マルガリーダの胸像などは残してほしい。それが名誉ある撤退だと思う。コチア産業組合が崩壊した後、創立者・下元健吉の胸像があちこちになってしまったが、そんな風になってほしくない」と願う。
 渡辺マルガリーダ女史は96年3月12日に95歳で亡くなった。大浦さんは「その直前、お見舞いに行ったんだ。『明日、明後日に亡くなってもおかしくない』と医者から聞いていた。そんな瀕死の病床にも関わらず、逆に『救済会のことをよろしくお願いします。早く良くなってあなたを手伝いたいわ』と言ってくれ、ボクはとても感動した」と昨日のことのように思い出す。
 その言葉に背中を押され、大浦さんは救済会総会に出席し、1967年から29年間も会長職にあったマルガリーダさんの後任選びが延々と難航している様子を見て、「じゃあ、ボクが専任理事をやるから、会長は田中福蔵さん、副会長は左近寿一(としかず)さんにお願いしたい」と注文を付けるとスパッと決まった。そして福博村の自宅に戻ったら、マルガリーダさんが亡くなったとの連絡が入った。「なにか不思議な縁を感じた」という。
 最も伝統あるコロニア福祉団体が危機に瀕した時、どうすべきなのか――。110周年はけっして祝い事だけではない。厳しい現実も我々に突き付けている。
 大浦さんの「いよいよ、コロニアは統合の時代に入ったのではないか…」との言葉が耳の中でこだました。(深)

救済会60周年と憩の園55周年 ←Click 
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笑う門には福来る!!

憩の園より、入所者の皆様の楽しいお正月の写真が届きましたので紹介いたします。写真からおわかりいただけますように、憩の園では日本の伝統的な「お正月」を楽しみます。
正月飾り、おせち料理、そして福笑いまるで日本の風景ですね。


日本在住の方は、この写真を見て懐かしいと感じられる方もいるのではないでしょうか!?

「福笑い」「かるた」「こま回し」「凧揚げ」など、かつて日本のお正月の定番だった遊びは、すっかり見かけなくなりました。

 
笑う門には福来る

今年も憩の園にはたくさんの福が訪れることでしょう!!