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| わが国最初の航空機事故の犠牲者となった木村、徳田両中尉の銅像記念塔=所沢市並木の県営所沢航空記念公園 |
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| 2人の陸軍中尉が搭乗していたフランス製「ブレリオ機」の模型 |
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| 木村鈴四郎砲兵中尉(喜多川方暢氏提供) |
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| 徳田金一歩兵中尉(喜多川方暢氏提供) |
1911(明治44)年4月、わが国初の飛行場が開設され、記念すべき日本の航空発祥地となった所沢市。その輝かしい栄光からわずか2年後、国内で初めての航空機事故が発生し、2人の搭乗員が犠牲になったのも所沢市だった。この痛ましい事故を悲しみ、後に犠牲者の記念塔が建設され、いま同市並木の県営所沢航空記念公園内にひっそり建っている。来月、事故からちょうど100年。同市生涯学習推進センターは、特別企画展を開催している。
■突風、そして墜落
所沢市によると、1913(大正2)年3月28日、所沢飛行場を離陸した陸軍の木村鈴四郎砲兵中尉(当時27、石川県出身)と、徳田金一歩兵中尉(当時29、山口県出身)=いずれも第1期飛行機操縦学生=が搭乗する、フランス製単葉機の「ブレリオ機」は東京・青山練兵場に向かった。航空機時代の幕開けを迎え、陸軍省がその重要性を貴族・衆院の両院議員に訴えるための観覧飛行だった。任務を終えた同機は午前11時36分、所沢に向けて帰航の途に就いた。
ところが、所沢飛行場の北東約1500メートル、松井村下新井字柿の木台(現所沢市下新井・聖地霊園脇)の上空300メートルに差し掛かった時、突風に左翼を破壊され、機体は墜落。2人の中尉は命を落とした。これが、わが国最初の航空機事故となった。
■低くなった記念塔
当時の「やまと新聞」(東京・京橋)が2人の死を悼み、国民から義援金を募って墜落地点の用地を買収し、銅像の記念塔を建てた。除幕式は1周忌に当たる14年3月28日に行った。銅像は左側が徳田中尉、右側が木村中尉。作者は金沢市の金工作家水野朗氏だ。両中尉の血痕の染みが残る肌着は今も大切に保管され、所沢航空発祥記念館に展示されている。
当時、墜落地点へ行くには交通の便が悪く、この地を訪れる人は少なかった。そこで所沢町(当時)のほか6カ村の在郷軍人会が発起人となり、29(昭和4)年3月、記念塔を西武線所沢駅西口に移設した。
その間、23(大正12)年9月の関東大震災により石積みの記念塔が大破、これを修復したため高さは約9・5メートルと、当初より1メートル余り低くなった。同センターの倉持美樹主査によると「記念塔の景観が当初と変わっている事実は意外と知られていない」という。また、記念塔の移転後、墜落地点には根府川石で作られた「木村・徳田両中尉殉職記念碑」も建立された。
■29年ぶり“帰還”
戦後は記念塔を取り巻く環境が大きく変わった。「軍」に関わる事物は忌避され、記念塔も52(昭和27)年、駅前の混雑緩和を理由に西武鉄道が市郊外の「西武園ゆうえんち」がある多摩湖畔(村山貯水池)へ移した。さらに65(昭和40)年11月、航空自衛隊入間基地の構内へと移っていった。
その後、所沢市内に「記念塔を再び所沢へ」という運動が広まった。米軍基地の跡地が部分返還されたことが契機となって「所沢が航空発祥の地であったことを示す記念の場所を作りたい」という思いが地元に強まる。
78(昭和53)年、航空記念公園が開設され、それを切っ掛けに記念塔をめぐる調整が入間基地との間で行われた。80(昭和55)年3月、記念塔の移設工事が始まり、翌年2月には完成式が行われた。実に所沢へは29年ぶりの“帰還”となった。
木村、徳田両中尉の殉職を追悼する特別展が3月17日まで、同市並木の市生涯学習推進センターで開かれている。事故現場や翼の一部、遺品、記念塔除幕式、事故機の模型などの豊富な資料が展示されている。問い合わせは、同センター(04・2991・0303)へ。