≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/05/15 9:15:40|その他
日ぎり三体地蔵尊(川越)伝説
新富町の西雲寺には立派な地蔵堂がたっています。お堂の中には木彫りの三体のかわいいお地蔵さまが祀ってあり、由来は一本の棒では不安定だが三本合わせればしっかり立つということだそうです。これは三ツ星(オリオンザ)をかたどったものだともいわれています。
このお地蔵さんがここに安置されたのは、むかし、会津若松のあるお殿様の夢枕にお地蔵さんが現れ「泥深い葦の中に埋まっているので出すべし」とお告げがあり、早速掘り出し、西光寺に安置しました。そのお地蔵様を模して彫刻したものを、ある偉いお坊さんが背負って諸国を行脚し川越にやってきて、西雲寺に納めたということです。お地蔵さまは天然痘にたいへん霊験あらたかで、願をかけるときはお堂の中にある麻縄と塩をいただいて家に持って帰り、縄を首に巻き付け塩を飲みますと、不思議に治るそうです。そしてお礼には麻縄と塩を倍にして納めに行ったという伝説です。(川越市教育委員会発行の川越の伝説より)
 







2020/05/14 9:36:46|その他
久保稲荷(出世稲荷)伝説
久保稲荷様を熱心に信仰している魚屋さんがいました。
ある日のこと商いのことで桶川宿まで出かけて行きましたが、遅くなり一泊することになりました。明日の早立ちの準備をして寝ました。ところが夜中にキツネが現れて「この宿を早立ちするとわざわいがある」と夢のお告げがありました。そこで、日が昇るのを待ってお昼過ぎにゆっくり宿を出ました。すると、途中、娘さんがオオカミに襲われた跡があり、大勢の人が騒いていました。魚屋さんは「もし、早く出たら私が襲われていただろう。あのお告げこそ、久保稲荷様に違いない。ありがたいことだ。」と前よりも増して信仰にはげみましたので店も大きくなり大繁盛しました。それで、「出世稲荷」と呼ばれ、願をかけるとき「稲荷さん、よいお嫁さんをお世話しますから、どうか出世させて下さい」と言うそうです。そして、女の人の描かれた絵馬とか人形を納めるという伝説です。
(川越市教育委員会発行の川越の伝説より)

私も以前久保稲荷に参詣に行った際、絵馬かけに和服の女性が描かれている古びた絵馬を見たことがあります。







2020/05/13 9:09:24|その他
川越城「霧吹きの井戸」伝説
川越城内の東北に石で囲った井戸があります。これを霧吹きの井戸といいます。
むかし川越城は戦の行われたところでした。いつもは井戸に蓋がしてありましたが、敵が攻めてきて、城が危ないというときは、すぐに井戸の蓋を取ります。すると、不思議なことに井戸の中から霧がもうもうと吹き出し、あたり一面にたちこめます。そして、城の周りを濃霧が包んでしまい城を隠してしまいます。敵は、突然城が見えなくなりますので、仕方なく引き上げて行ってしまうそうです。敵が去った後は、また元の澄み切った、眺めのよい城となるのです。こういったことから「霧隠城」とも言われていたそうです。
この井戸は現在は博物館前の庭に移設され伝承されています。
(川越市教育委員会発行の続川越の伝説より)
 







2020/05/12 10:23:20|その他
榎の木稲荷(三変稲荷古墳)伝説
三変稲荷神社古墳(榎の木稲荷)
むかし喜多院に長い間住んでいた化け上手の白いキツネが、正体を見破られてお暇をもらい寺を出ることになりました。そこで、尊海僧正にお礼にと言って「二千五百年も前の釈迦が布教しているお姿をお見せいたしましょう。その代わり、私が化けている間、一言たりとも声を出してはいけません」といいました。尊海僧正は「そんなに尊いお方が見られるのはありがたい」と固く約束しました。ところが、目の前に展開されますと、さすがの尊海僧正も思わず「ああ、ありがたや、南無阿弥陀仏」と声を出してしまいました。すると、とたんに釈迦のお姿は消え、榎の木に登って化けていた白いキツネはもんどりうって落ちて死んでしまいました。尊海僧正は白いキツネを憐れみ榎の木の下に亡骸をお祀りしたのが、この榎の木稲荷だという伝説です。(川越市教育委員会発行の続川越の伝説より)
 







2020/05/11 9:08:59|その他
蓮馨寺の鐘伝説
むかしのお話です。川越の大火で蓮馨寺の堂宇伽藍は燃えてしまい、鐘楼にまで広がろうとしていました。その時です、ものすごい勢いで走ってきたお坊さんが鐘楼に駆け上り鐘をゴ〜ンゴ〜ンと乱打し始めました。周りは火の海で、人々は「早く逃げてください、もう火は消えません」と口々に叫びますがお坊さんはくじける様子も見せず、なお鐘を打ち続けました。その尊いお坊さんの姿に、火は恐れたのか、鐘楼にだけは燃え移りませんでした。それどころか除けて通るようでした。町は焼け野原となってしまいましたが、蓮馨寺の鐘楼だけはドッシリとそびえたっておりました。気が付くとお坊さんの姿は見当たりません。その後人々はあのお坊さんこそ呑龍様だったと知り、今更ながら呑龍様のありがたみがわかり、毎月八日の縁日にはにぎわったと言います。