≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/06/03 14:33:06|その他
伊佐沼の由来
伊佐沼の地名の由来
古来、伊佐沼の周辺地域は旧入間川の乱入地域にある広大な湿原でした。その中に「アカギヌマ」と呼ばれる川跡沼がありました。
この地を支配していた古尾谷十三郷の領主古尾谷氏が常陸国真壁郡伊佐郷から土木技術に長けた伊佐氏を招いて泥沼を画し、領内水田の溜江とするためということである。
昔の伊佐沼は長さ十七町巾三町余りとあり、メートルに直すと長さ1850m巾330mとなり県道川越上尾線から十六号国道まで伊佐沼だったということでしたが、食糧増産のため干拓が行われ、面積が減少した。
 昭和初期までは、新河岸川(現九十川合流点より下流)の源流とされていたが、1920年(大正9年)〜1931年(昭和6年)に川越市街地の北側を流れる赤間川に新河岸川は繋げられ、旧・赤間川が新河岸川の源流となり、伊佐沼は現在は、九十川の源流となっている
 
 







2020/06/02 16:57:16|その他
殿様の厠のはなし
今日は少し品の悪いお話をします。
 喜多院の客殿は江戸城の紅葉山にあった別殿を、寛永の川越大火以後移築したことは川越に住んでいる方ならおわかりですが、廊下の突き当りにある板戸を開けると左に湯殿、右は厠がある。厠の方は広さが一坪以上もあって、しかも、畳敷である。畳の真ん中に矩形の穴が切ってあり、蓋がしてある。用をたす際には、必ずお中揩ゥ近習が二人以上ついていく、一人は御用が済むまで刀を預かって厠の前に控えている。もう一人は中までお供してすべてご面倒をみてさしあげる。出てくるときは、自分の手を使いもしないのに、手水鉢のところで黙って両手を差し出す。ご近習が柄杓で水をかけてあげるという作法とのことである。

 現代ならば、トイレのドアを開ければ、便器が「いらっしゃいませといわんばかりに」口を開けて、終われば、お湯で尻を洗ってくれて、温風で乾かしてくれる。立ち上がれば、「おつかれさまといわんばかり」蓋が自動で閉じる。トイレの進化はすごいと思うが、これからどのように進化してゆくのか楽しみである。
 







2020/06/02 11:27:17|その他
殿様のお風呂作法
 喜多院の客殿は江戸城の紅葉山にあった別殿を、寛永の川越大火以後移築したことは川越に住んでいる方ならおわかりですが、廊下の突き当りにある板戸を開けると左に湯殿、右は厠がある。湯殿の広さは二坪くらい、真ん中に湯の流れる小溝がある。
 将軍や大名の入浴作法につきましては、まず、廊下を歩いているうちに、近習が次々に衣服を脱がせていく。ちょうど風呂に達したときは、裸になっている。湯が「熱い、ぬるい」とそっぽを向いていうと、風呂番が湯桶に用意してある「水・湯」を足す。そっぽを向いて言うのは、賤しい身分の者と口を利くことはご法度だという。
 垢を流すのは三助で、上から下まで一切やってくれる。したがって、恥ずかしがり屋は大名にはなれないだろうが、生まれたときからそういう扱いを受けているので、恥ずかしいという概念はないらしい。上半身と下半身では使用する手ぬぐいも違うとのこと、入浴を終えると下帯を替える、そして、用済みの下帯は風呂番の役得になるそうである。
 







2020/06/01 11:04:11|その他
天海僧正の年齢は
天海僧正の長寿は大変有名ですが、何歳だったかというと諸説あり、はっきりしません。喜多院の住職になったのは天正16年(1588)で慶長14年(1609)初めて徳川家康に用いられ権僧正の官に任ぜられた。
 このころから天海の履歴ははっきりしている。家康に用いられた時は74歳で、家康より6歳年長ということになり、無理なく解釈できる。
喜多院境内に正保2年(1645)に建てられた慈眼堂があって、この中に厨子に入った天海の木像がある。資料では、総高1.65mヒノキの寄木造、極彩色で玉眼が頑乳嵌入されており、袍裳をつけて袈裟をかけ、右手に払子、左手に如意を持ち、椅子の上に趺座した姿である。この木像は天海が入寂に先立つ2カ月前に完成したものだという。(寛永20年8月吉日) 天海が入寂したのは寛永20年という。  計算してみてください。
 
 私は、たまたま慈眼堂の中を覗いた時、厨子の扉が開いていて、拝観できました。その後は覗いても、扉は閉じたままです。
 







2020/06/01 10:46:52|その他
「ものさしがない」 どうしよう  ヒントある
物差しがない場合、あわてるな!!物差しを作ればいい。
一円玉があるじゃない  大きさは2cm  5個あれば10cm だよ