≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/06/07 10:52:54|その他
川越夜戦について
  河越城は上杉氏の家臣大田道真・道灌親子が江戸城とともに築いた城である。 
  当時武蔵の国は古河公方足利成氏と上杉氏の勢力争いのところであった。河越城は入間台地の突端が、水田地帯に面するところに構築され、赤間川を外堀に利用している。難攻不落とはいうものの、その防備には限界があり、有事の際は城外に出て勝敗を決していた。

 やがて北条氏の勢力は、次第に関東一円に伸びて、上杉氏と交代するが、河越城の北条氏領有を決定的にしたのは、天文15年(1546)川越夜戦であった。
 いったん北条氏に奪われた河越城を、奪還しようとして、城を包囲した山内・扇谷両上杉と古河公方足利晴氏の連合軍8万余騎、これに対する河越城内の兵3千で、食糧もすでに尽きようとして、非常な苦戦に陥った。急を聞いて駆け付けた北条氏康の援軍が8千余騎。福島綱成の弟「弁千代」が当時14歳の若干ながら、単身敵中を突破して、城兵との連絡を果たした。4月20日の夜陰に乗じて、城門を開き打って出て、10倍近い敵を一挙に壊滅した。この夜戦は厳島・桶狭間の戦いとともに、日本3大夜戦として史上に名高い。

今に語り継がれている、もっとも戦いの激しかった東明寺口からは、ず〜っと後年まで地面を掘ると、帯びたただしい髑髏が出たという。
 







2020/06/06 13:54:37|その他
蓮馨寺、蓮馨尼の板碑(蓮馨尼の墓)
 蓮馨寺は天文十八年(1549)時の川越城主大道寺駿河守政繁が母蓮馨尼を追福するために感誉上人を招いて開山した浄土宗の寺で、慶長七年(1602)浄土宗十八檀林の制度が設けられるとこの寺もその一つに列せられ、葵の紋所が許されるなど僧侶の大学として栄えた。しかし、明治二十六年川越の大火によって鐘楼及び水舎を残して全焼してしまい、現在の堂はその後の再建になっている。
墓地には、関東地方で良く見られる石製の卒塔婆(そとうば)が建てられています。
 蓮馨寺は当初、現在の上尾市平方に建てられていましたが、後に当地に移され、開基の蓮馨尼が祀られました。
 この蓮馨尼の墓は、歴代住職の墓内に建てられています

 







2020/06/05 14:51:02|その他
「どっこい喜多町広済寺」(川越)
どっこい喜多町広済寺
 志多町から喜多町へあがってくる坂は、近年大分緩やかになってきましたが、昔は東明寺坂と呼ばれ、かなりの旧坂でした。松山方面から荷駄を積んでくる馬車にとっては相当な難所であったようです。
 私(超老人)が子供のころ、近所の商店では、自転車にリヤカーを取り付けていっぱいの荷物を載せて、坂を上ってきますが、登りきるまで家族が総動員で後押しをしていました。また、悲しかったことがあったのは、荷を積んだ車を引いてきた馬が、坂の途中で倒れて、獣医の手当も及ばず亡くなってしまったことがありました。そのようにきつい坂ですから、ここに来ると「どっこいしょ」「ヤレキタ」「ソレキタ」「ホイキタ」など掛け声をかけながら、勢いをつけて登ってくることになります。
 その坂を上り切ったところに広済寺があります。登り切って「どっこい喜多町広済寺」といって、ほっとして皆で汗を拭って、喜んだことでしょう。
 この「どっこい喜多町広済寺」の掛け声は地口(ダジャレの一種)のようです。江戸時代の末期ごろから盛んにこのような地口が言われるようになり、神社の縁日の参道に絵とか字を書いた、にぎやかな掛け行灯がかざられるようになり、ここに地口の文句が書かれるようになってきたようです。
 似たような掛け声には「有難山の寒がらす」「只取山のほととぎす」「恐れ入谷の鬼子母神」など聞いた方も多いのではないかと思いますが、これと同じように「どっこい喜多町広済寺」も地口(ダジャレの一種)をいっていたのではないかと思います。
 







2020/06/04 12:16:46|その他
川越最後の殿様と光西寺(仙波町)
 私は散歩で仙波方面に行くことがあります。仙波あたりには、多くの歴史遺産があります。喜多院、東照宮、中院、その隣に今回紹介しようとする光西寺があります。
 光西寺は、永禄九年(1566)に、石州浜田(島根県)に建立されたのに始まる。浜田藩士の菩提寺として尊崇されていたが、天保七年(1836)十代藩主康爵の時、日本海の孤島「竹島」を根拠地として外国との貿易(当時は禁止)を行って、幕府の政策に違反したことが、幕府の密偵間宮林蔵の調べで露見し、本来ならばお家取り潰しになるところ、徳川家の親藩の故をもって減刑、重臣二人が責任を取って切腹、船頭が処刑され、藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるにとどまった。
 光西寺も家臣ともども棚倉に転住した。棚倉在住三十余年、維新の危機に直面した幕府は、城主松平周防守康英の英明と外交的手腕を重視し、老住職に任じ川越城主に転封させ国内国外の重要政策の責任者とした。
 慶応二年(1866)光西寺は、家臣とともに川越に転地し、南町養寿院門前の千手院(現在は無い)を仮寺とした。その翌々年は明治元年、明治維新となったので、寺領も貰えず寺の建立もならず、ようやく大正の末に現在の場所に小堂を建立したのである。お伴寺とか呼ばれている。(寺の門前の掲載文)
 
松平周防守家の本姓は松井氏で、三河以来の重臣で、後に松平姓を賜った譜代の家柄である。廃藩置県まで康英、康載の二氏が川越藩主となり、領高は八万八百石であった。光西寺は松井家の菩提所で、現在は「松井家累代之墓」とあるように、松井家累代の遺骨170余柱が合葬されている。(川越市教育委員会昭和33年市指定文化財史跡)
 







2020/06/03 22:10:43|その他
薬師神社の由来(時の鐘奥の神社)
 小江戸と呼ばれる川越の蔵造りの街並みを代表するシンボルとなっている「時の鐘」をくぐり奥へ進むと、こぢんまりと鎮座しているのが薬師神社である。右手に手水舎、正面に拝殿、拝殿右隣に摂社の稲荷神社という構成。元は「瑞光山医王院 常蓮寺」というお寺だったそうだ。
 その後、明治の神仏分離により常蓮寺は廃寺に。薬師堂は「薬師神社」と改称する形で現在に至っている。神社になるにあたり、祭神は大己貴命・少彦名命となっているが、資料によると往時の本地仏として薬師如来像、脇士として日光菩薩像・月光菩薩像を安置している。
 明治二十六年(1893)に起きた川越大火で、時の鐘と共に当社も焼失。(薬師像のみ運びだされたものの、その他一切焼失したとの事)
現在の社殿は翌年の明治二十七年(1894)に、時の鐘と共に再建されたものとなる。
 ちなみに観光名所になっている「時の鐘」は、元は「常蓮寺(現・当社)」の山門として建立されている。(川越藩藩主によるもの)地元では時の鐘を「鐘撞堂」と呼ぶ方もいる。その呼び名からも寺院時代を思わせてくれる。そのため川越大火で焼失した後も、薬師神社と時の鐘は、セットで再建されたのであろう。再建の時は、地元の川越商人を始めとする市民の方々が主導して募金を募り、川越に縁のある政治家や実業家、さらには明治天皇の下賜金など、多額の援助金が集まったため、翌年に再建できたというエピソードがあり、川越市民にとって大切なシンボルだった事が窺える。