≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/06/02 11:27:17|その他
殿様のお風呂作法
 喜多院の客殿は江戸城の紅葉山にあった別殿を、寛永の川越大火以後移築したことは川越に住んでいる方ならおわかりですが、廊下の突き当りにある板戸を開けると左に湯殿、右は厠がある。湯殿の広さは二坪くらい、真ん中に湯の流れる小溝がある。
 将軍や大名の入浴作法につきましては、まず、廊下を歩いているうちに、近習が次々に衣服を脱がせていく。ちょうど風呂に達したときは、裸になっている。湯が「熱い、ぬるい」とそっぽを向いていうと、風呂番が湯桶に用意してある「水・湯」を足す。そっぽを向いて言うのは、賤しい身分の者と口を利くことはご法度だという。
 垢を流すのは三助で、上から下まで一切やってくれる。したがって、恥ずかしがり屋は大名にはなれないだろうが、生まれたときからそういう扱いを受けているので、恥ずかしいという概念はないらしい。上半身と下半身では使用する手ぬぐいも違うとのこと、入浴を終えると下帯を替える、そして、用済みの下帯は風呂番の役得になるそうである。
 







2020/06/01 11:04:11|その他
天海僧正の年齢は
天海僧正の長寿は大変有名ですが、何歳だったかというと諸説あり、はっきりしません。喜多院の住職になったのは天正16年(1588)で慶長14年(1609)初めて徳川家康に用いられ権僧正の官に任ぜられた。
 このころから天海の履歴ははっきりしている。家康に用いられた時は74歳で、家康より6歳年長ということになり、無理なく解釈できる。
喜多院境内に正保2年(1645)に建てられた慈眼堂があって、この中に厨子に入った天海の木像がある。資料では、総高1.65mヒノキの寄木造、極彩色で玉眼が頑乳嵌入されており、袍裳をつけて袈裟をかけ、右手に払子、左手に如意を持ち、椅子の上に趺座した姿である。この木像は天海が入寂に先立つ2カ月前に完成したものだという。(寛永20年8月吉日) 天海が入寂したのは寛永20年という。  計算してみてください。
 
 私は、たまたま慈眼堂の中を覗いた時、厨子の扉が開いていて、拝観できました。その後は覗いても、扉は閉じたままです。
 







2020/06/01 10:46:52|その他
「ものさしがない」 どうしよう  ヒントある
物差しがない場合、あわてるな!!物差しを作ればいい。
一円玉があるじゃない  大きさは2cm  5個あれば10cm だよ







2020/05/31 11:17:41|その他
天海僧正の逸話
 天海僧正が江戸城で、徳川家光にお目にかかった時、見事な柿がふるまわれた。ごちそうになった天海は、その柿の種を懐紙に包んで持って帰ろうとした。これを見た家光が、「柿の種なぞ何のために持って帰るのか」と聞いたところ「持って帰って植えまする」と答えた。家光は「百歳にもなろうとする老人が無駄な事をするものだ」というと、天海は、「天下を治めようとなさる方が、そのような性急な考えをしてはなりませぬ」といって退出した。
何年かたって、天海が立派な柿を献上してきたので、家光が「この柿はどこの産か」と尋ねると「先年拝受いたしました柿の種が成長したものでございます」と答えた。桃栗3年柿8年という話があることから、さすがの家光も、これにはびっくりするとともに、深く反省されたという逸話があるようです。
これを聞いて私は、「人の寿命はいつ果てるかわかりませんが、その時が来るまで夢を描き続けるべきという教訓かも」と思いました。
 







2020/05/30 11:43:02|その他
川越法善寺「虫食い奴の墓」
 境内を入ると本堂右手前にわずかに梅雨をしのぐばかりの上屋があってその中に奴の墓と呼ばれる石像がある。4斗樽にどっかと腰を据えた中年男の像はちょっと異様な面相をしているがこれが奴の墓だということは奴髷を結っているのですぐにわかる。この奴は松平伊豆守の家臣石川作衛門が召抱えていた下僕で瀬川加右衛門という。生国は上総国だが縁あって川越に住みついた。
 性格はいたって剛強不屈で大の酒好き、酒さえあれば天下泰平で肴などは何でもよかった。「食肉を好み、その美悪を問わず、およそまな板にのらないようなもの」も手当たり次第に平気で食べた。しかも驚くべきことは腐肉が一番好きと言って好んで食したという。それによって中毒は一度もなかったという、恐れ多い人物の様である。たちまち城下の名物になり、いつしか虫食い奴と呼ばれるようになった。奴は無縁のものなので、晩年自ら自分の姿を石像にして墓を建て、元禄6年(1693)この世を去った。法名は浄徳という。この墓は川越の大火で焼失したが、現在のものは、復元されたものだという。しかし、伊豆守の家臣の中には、名だたる人は多くいただろうが、そのほとんどは墓所不明、一家臣のしかも下僕の墓が有名になっているという、人がやらないことをやり、人々に印象を残した人も少ないと思った。