≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/06/10 11:04:43|その他
「川越に誕生した銀行が発行した紙幣」
八十五銀行が発行した紙幣
 明治6年7月に東京に国立の銀行が誕生した。12年11月までに全国で153の国立銀行が誕生。明治11年11月、県内唯一の85番目の国立銀行が川越に誕生した。
 銀行設立の話が持ち上がったのは明治10年ころから、発起人は綾部利右衛門、黒須喜兵衛、横田五郎兵衛、小川五郎右衞門、山崎嘉七、西村半右衛門、沼田治兵衞など河越藩の御用商人の系統が多かった。11年3月設立願いを提出11月開業免状下附、12月南町の横田五郎兵衛の屋敷の一角を借りて開業という経過をたどった。
 資本金は20万円、1株の額面は100円、株主層は川越の商人たちが最も多く、川越、松山の士族も多数参加したという。
紙幣発行は、資本金の80%、16万円が許された。5円紙幣2万2千400枚(112,000円)、1円紙幣4万8千枚(48,000円)となっている。
かくて、20年の営業期間を迎えた第85国立銀行は、明治31年私立第85銀行に改組された。改組された銀行は時を経て、昭和18年の一県一行主義の合同勧奨により、武州銀行、忍商業銀行、飯能銀行と合併し、名を埼玉銀行と改め、最近までこの名前は継続された。埼玉銀行も他の銀行と合併し、今や名前が薄れていくのは淋しい気持ちです。
*発行された1円紙幣には、黒須喜兵衛、山崎嘉七の名が確認できる。
(川越の歴史資料参考)
 







2020/06/09 15:10:34|その他
「伊佐沼の大片貝」伝説
 伊佐沼は昔はもっと広く、中ほどには小さな島があったという。島には薬師堂があり、行基作という像が本尊であったという。眼の病気に霊験があらたかであると知られ、近郷近在からの人が絶えなかった。そして、この沼には沼ができたときから棲んでいるという大片貝もいた。
 ある時、大雨が続き沼があふれた。薬師堂のある小島はひとたまりもなく沈みかけたが、沈むどころかどんどん浮き上がっていくのだった。これは、沼の主である大片貝が小島の下にいて、薬師様を背負ってお守りしていたからであるという
それで薬師堂は水に浸かったり流されたりすることはないのだそうな。薬師堂のある伊佐沼はその風景のすばらしさから「三芳野八景」の一つとしても数えられ、九十川の水源にもなっている。
 今は沼の中には、薬師堂はないが、沼から少し離れたところにあります。 (川越の伝説)
 







2020/06/09 10:58:38|その他
「上寺山の観音様」伝説
上寺山の観音さま伝説
 むかしのお話です。上寺山の観音堂のご本尊様は、行基の作といわれ、大変に大事にされていました。村の人たちも「上寺山の観音様」と呼び、毎日お参りを欠かしたことがありませんでした。ある日のこと、お堂にやってきた人が「こんなに素晴らしいご本尊さまは、ここにおいてはかわいそうだ。」、「上戸の常楽寺のような大きなお寺に納めた方がよろしいでしょう」といいまして、常楽寺に持って行ってしまいました。
 ところが、あくる朝、常楽寺の住職が本堂を見ましたところ、観音様の像がありません。慌てて四方八方を探しましたところ、上寺山の観音堂に納まっているではありませんか。よく調べてみると、観音様は「わたしはやっぱりもとの住み家のほうがいい」といいまして、夜のうちに逃げ帰ったのだそうです。それからは、もう二度と観音様をお堂から外へは出さなかったということです。(川越の伝説より)
 







2020/06/08 16:33:00|その他
川越夜戦伝説「甲首の夜盗虫」
 むかしむかしのお話です。川越あたりでは夜も遅くなったころ、突然「ゴオ〜ツ」というすごい音が、しばしば聞こえてくることがあったという。これは夜盗虫といいます羽をもった虫が、群れて飛ぶ音だと言われておりまして、こんな時家の中の人たちは決してあわてず「あッ また甲首がやってきた」と言って戸をあけ、表へ飛び出し「弁千代、弁千代、弁千代」と三回大声で叫びます。すると騒いでいた甲首の夜盗虫は、とたんに静まり群れを乱して逃げ去ってしまうという。その昔日本三大夜戦のひとつ川越夜戦で撃たれた、両上杉勢の怨霊だと言われ、「弁千代」というおまじないは、夜戦のとき、勇ましい功績をたてた北条方の少年の名だということです。(川越の伝説より
 







2020/06/08 10:33:05|その他
川越夜戦で功績のあった「弁千代」のその後
 始祖今成公は、駿河国丸子城主3万5千石福島左衛門尉安房守正成の3男にして、幼名は弁千代と言い、後に北条氏三代目北条氏康の家臣となる。天文十五年(1546)川越夜戦において、唯一、名を成した連絡の功績により、主君氏康より改名を賜り北条伊賀守勝廣となる
この折伊賀国熊野権現に詣で、敵味方の差別なく、双方の戦死者の慰霊祈願をなす。後、紀伊国熊野神社に参詣し若宮となる
その後、上野国沼田城主河田伯耆守重親の姫と結ばれ川田備前守今成と改名。永禄の始め河越城主の大道寺駿河守政繁が母の為、蓮馨寺を創建し、感譽存貞上人及び蓮馨尼とともに同寺に居住す後田面沢を領有開拓して今成を村名とし、家屋を建て居住する。天正三年(1565)紀伊国熊野神社の分霊を勧請して今成の村の氏神とした。(蓮馨寺墓地の碑)

『新編武蔵風土記稿』は「昔川田備前守今成と云人、爰に来りて開墾せし故に其名を以て村に名づく。今成屋敷蹟、村の西にあり、当村を開墾せし川田今成が居住せし所なり。川田を氏として三ツ鱗を家の紋とす。又云、川越蓮馨寺の開基大道寺駿河守が伯母蓮馨尼・此所に寄留せしと、是北条の縁家なれば兎角詳なることを知ず」と記している。
『入間郡誌』は「永禄の頃、北条長氏の孫川田今成・本村を開墾し、天正三年九月熊野社を勧請す。今成屋敷蹟は安楽寺の東に続きたる川田備前守今成居住の地也。」としている。
『埼玉の神社』は、今成熊野神社の縁起について、「川田今成が当所に入った時、川越の連雀町にある蓮馨寺を宿とした縁から寺の守護神として祀られていた熊野神社を、当地に川田屋敷を建築した際分霊したことによるという。一説に天正三年九月紀州熊野神社を今成屋敷内に勧請し、更に現在の地に移して村の鎮守としたともいう。」と記している。