≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/06/09 10:58:38|その他
「上寺山の観音様」伝説
上寺山の観音さま伝説
 むかしのお話です。上寺山の観音堂のご本尊様は、行基の作といわれ、大変に大事にされていました。村の人たちも「上寺山の観音様」と呼び、毎日お参りを欠かしたことがありませんでした。ある日のこと、お堂にやってきた人が「こんなに素晴らしいご本尊さまは、ここにおいてはかわいそうだ。」、「上戸の常楽寺のような大きなお寺に納めた方がよろしいでしょう」といいまして、常楽寺に持って行ってしまいました。
 ところが、あくる朝、常楽寺の住職が本堂を見ましたところ、観音様の像がありません。慌てて四方八方を探しましたところ、上寺山の観音堂に納まっているではありませんか。よく調べてみると、観音様は「わたしはやっぱりもとの住み家のほうがいい」といいまして、夜のうちに逃げ帰ったのだそうです。それからは、もう二度と観音様をお堂から外へは出さなかったということです。(川越の伝説より)
 







2020/06/08 16:33:00|その他
川越夜戦伝説「甲首の夜盗虫」
 むかしむかしのお話です。川越あたりでは夜も遅くなったころ、突然「ゴオ〜ツ」というすごい音が、しばしば聞こえてくることがあったという。これは夜盗虫といいます羽をもった虫が、群れて飛ぶ音だと言われておりまして、こんな時家の中の人たちは決してあわてず「あッ また甲首がやってきた」と言って戸をあけ、表へ飛び出し「弁千代、弁千代、弁千代」と三回大声で叫びます。すると騒いでいた甲首の夜盗虫は、とたんに静まり群れを乱して逃げ去ってしまうという。その昔日本三大夜戦のひとつ川越夜戦で撃たれた、両上杉勢の怨霊だと言われ、「弁千代」というおまじないは、夜戦のとき、勇ましい功績をたてた北条方の少年の名だということです。(川越の伝説より
 







2020/06/08 10:33:05|その他
川越夜戦で功績のあった「弁千代」のその後
 始祖今成公は、駿河国丸子城主3万5千石福島左衛門尉安房守正成の3男にして、幼名は弁千代と言い、後に北条氏三代目北条氏康の家臣となる。天文十五年(1546)川越夜戦において、唯一、名を成した連絡の功績により、主君氏康より改名を賜り北条伊賀守勝廣となる
この折伊賀国熊野権現に詣で、敵味方の差別なく、双方の戦死者の慰霊祈願をなす。後、紀伊国熊野神社に参詣し若宮となる
その後、上野国沼田城主河田伯耆守重親の姫と結ばれ川田備前守今成と改名。永禄の始め河越城主の大道寺駿河守政繁が母の為、蓮馨寺を創建し、感譽存貞上人及び蓮馨尼とともに同寺に居住す後田面沢を領有開拓して今成を村名とし、家屋を建て居住する。天正三年(1565)紀伊国熊野神社の分霊を勧請して今成の村の氏神とした。(蓮馨寺墓地の碑)

『新編武蔵風土記稿』は「昔川田備前守今成と云人、爰に来りて開墾せし故に其名を以て村に名づく。今成屋敷蹟、村の西にあり、当村を開墾せし川田今成が居住せし所なり。川田を氏として三ツ鱗を家の紋とす。又云、川越蓮馨寺の開基大道寺駿河守が伯母蓮馨尼・此所に寄留せしと、是北条の縁家なれば兎角詳なることを知ず」と記している。
『入間郡誌』は「永禄の頃、北条長氏の孫川田今成・本村を開墾し、天正三年九月熊野社を勧請す。今成屋敷蹟は安楽寺の東に続きたる川田備前守今成居住の地也。」としている。
『埼玉の神社』は、今成熊野神社の縁起について、「川田今成が当所に入った時、川越の連雀町にある蓮馨寺を宿とした縁から寺の守護神として祀られていた熊野神社を、当地に川田屋敷を建築した際分霊したことによるという。一説に天正三年九月紀州熊野神社を今成屋敷内に勧請し、更に現在の地に移して村の鎮守としたともいう。」と記している。







2020/06/07 10:52:54|その他
川越夜戦について
  河越城は上杉氏の家臣大田道真・道灌親子が江戸城とともに築いた城である。 
  当時武蔵の国は古河公方足利成氏と上杉氏の勢力争いのところであった。河越城は入間台地の突端が、水田地帯に面するところに構築され、赤間川を外堀に利用している。難攻不落とはいうものの、その防備には限界があり、有事の際は城外に出て勝敗を決していた。

 やがて北条氏の勢力は、次第に関東一円に伸びて、上杉氏と交代するが、河越城の北条氏領有を決定的にしたのは、天文15年(1546)川越夜戦であった。
 いったん北条氏に奪われた河越城を、奪還しようとして、城を包囲した山内・扇谷両上杉と古河公方足利晴氏の連合軍8万余騎、これに対する河越城内の兵3千で、食糧もすでに尽きようとして、非常な苦戦に陥った。急を聞いて駆け付けた北条氏康の援軍が8千余騎。福島綱成の弟「弁千代」が当時14歳の若干ながら、単身敵中を突破して、城兵との連絡を果たした。4月20日の夜陰に乗じて、城門を開き打って出て、10倍近い敵を一挙に壊滅した。この夜戦は厳島・桶狭間の戦いとともに、日本3大夜戦として史上に名高い。

今に語り継がれている、もっとも戦いの激しかった東明寺口からは、ず〜っと後年まで地面を掘ると、帯びたただしい髑髏が出たという。
 







2020/06/06 13:54:37|その他
蓮馨寺、蓮馨尼の板碑(蓮馨尼の墓)
 蓮馨寺は天文十八年(1549)時の川越城主大道寺駿河守政繁が母蓮馨尼を追福するために感誉上人を招いて開山した浄土宗の寺で、慶長七年(1602)浄土宗十八檀林の制度が設けられるとこの寺もその一つに列せられ、葵の紋所が許されるなど僧侶の大学として栄えた。しかし、明治二十六年川越の大火によって鐘楼及び水舎を残して全焼してしまい、現在の堂はその後の再建になっている。
墓地には、関東地方で良く見られる石製の卒塔婆(そとうば)が建てられています。
 蓮馨寺は当初、現在の上尾市平方に建てられていましたが、後に当地に移され、開基の蓮馨尼が祀られました。
 この蓮馨尼の墓は、歴代住職の墓内に建てられています