≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/06/13 20:27:05|その他
蟻の雨対策
 アリの巣は雨のとき、浸水してしまうことはないのか疑問でしたので蟻の生態について少し調べてみました。
 もともと、雨が降っても浸水しないような小高い場所にたくさんの部屋を作って生活しています。土の中に巣を作る理由としては、地面の中だと風が吹いても雨が降っても壊れにくいからだといわれています。気温の変化に弱いアリにとって、土の中は室温が一定で変わりづらいため過ごしやすいといえます。またアリはお尻からフェロモンを出すことができ、そのニオイで連絡を取り合えるため、真っ暗な巣の中でも生活に困ることはありません。大雨が降った場合は巣に水が入ってくることもあります。そんなとき、アリは雨の気配を感じると、巣穴の入り口に土をかぶせてふたをするのです。さらに巣穴の壁を固めて、水を通さないように工夫しています。巣の中の部屋は必ず横穴に形成されているため、水は下へ下へと流れ、横穴の部屋には被害が及ばない仕組みになっているのです。
 アリはとっても賢い生き物なのです。しかし、それでも完全に防水できるというわけではありません。雨が上がって水が引いてきたら、急いで傷んだ巣を補修するようです。
 巣の外に出てエサを探し、巣にもち帰るような仕事は危険が伴うため、比較的高齢なアリが担当することが多いようです。また、外敵が巣に侵入してきたなどの緊急時には「兵隊アリ」と呼ばれる大きなアゴをもったアリが応戦します。
 これから雨上がりなどにアリを見つけたときは、どんな行動をしているのか、何を運んでいるのかをじっと観察してみるのも面白いかもしれませんね。
 
 
 







2020/06/12 12:20:04|その他
童謡「とおりゃんせ」について C
 
「通りゃんせ」。その歌詞には、ちょっと不思議な言い回しがいくつも出てきます。
りゃんせ」「しゃんせ」などの「やんせ」という語尾は、もともとは近江地方(滋賀県)の方言だとも、薩摩地方(鹿児島県)の言葉だともいわれます。
「細道じゃ」の「じゃ」という語尾は、主に備前地方(岡山県)のものです。お国訛りがちゃんぽんになったようなこの歌詞から、「通りゃんせ」成り立ちの背景が見えてきます。
 江戸には全国諸藩の上屋敷(江戸藩邸)があり、各地からもたらされた方言が江戸の山の手言葉として形成されていったという歴史があり、江戸城下発祥である、と推測できます
 明暦年間(1655〜1658年)に江戸城の二の丸東照宮が川越城の南田郭門外に遷座されます。その際、三芳野神社の天神社の外宮を造営されている。「通りゃんせ」発祥の地としてもっとも流布されている。これが川越発祥の根拠ともいわれています。
 しかし、いろいろ調べていくうち、全国各地にこの童謡が定着していますし、全国津々浦々に1万2千社もある天神社と、それぞれの地域で無邪気に遊んだ子供たちこそがその発祥でる、とするのが正解なのではないでしょうか。







2020/06/12 11:29:57|その他
童謡「とおりゃんせ」について B
「通りゃんせ 通りゃんせ、ここはどこの細通じゃ、天神さまの細道じゃ、ちょっと通して下しゃんせ、御用のないもの通しゃせぬ、この子の七つのお祝いに、お札を納めにまいります、行きはよいよい、帰りはこわい、こわいながらも、通りゃんせ 通りゃんせ」
 この唄の少し古い形を、江戸時代までさかのぼると「御用のないもの」というところが「手形のないもの」となっているようです。そうしてみるとこの唄は関所に関連があるのではないかと推測できます。
 徳川氏は西国の諸藩から江戸を守るために、箱根の関所をつくり通行のチェックを厳重にした。関所手形のないものは絶対に通行が許されなかった。
 しかしそうした裏面にも、「親の重病とか、主人の危篤など」という火急の場合で、どうしても手形をうけるいとまがないときは、関所の役人に哀願すると、表向きは拒否するが、「こらこら貴様はこちらの方から参ったのにそちらに参るとは不都合な奴だ」といって、わざと来た方向と反対の方に出してくれた。いわゆるお上のご慈悲である。
しかし、用事が済んで帰るときには、再び寛大にあずかるわけにはいかない。はて、どうしたものだろうと大いに苦慮せねばならない。
そこで、「行きはよいよい、帰りは怖い、怖いながらも通りゃんせ」という文句が出てくる。この関所説は「日本遊戯誌」という本に出来るようである。これが真実かどうかわかりかねます。川越っ子の私としては信じたくはありませんが、このような説もあるということを記しておきます。
 

 







2020/06/11 12:11:42|その他
童謡「通りゃんせについて」 A
「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ ちっと通して下しゃんせ 御用のない者通しゃせぬ この子の七つのお祝いに 御札を納めに参ります 行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」
 
どうして「帰りは怖い」のでしょうか?
 昔は現代と違い、生まれた子供がすぐに死んでしまうことは、そう珍しくもありませんでした。だから、ある程度身体がしっかりと育ち、抵抗力をつける7歳までは「神様の子」と思うことにして、死んでも「元々神様の子なんだから、神様の元へ帰っただけなのだ」と解釈することで、自らを慰めていたのです。しかし、どうにか7歳まで成長したら、もうその子は「人間の子」となり、神様の子ではなくなります。七五三とは、いわば「この子を人間の子として、私の子としてお認め下さい」と神様にお願いする儀式で、子供の魂をその身体とこの世に定着せしめることが目的でした。かくして7歳になった子供は、もう神様も守ってくれません。自分の力で、そして親子や家族、地域と助け合い、共に生きていかねばならないのです。そのことを実感するにつれ、帰り道はどんどん恐ろしくなっていく。でも、恐ろしくても生きねばならない。この唄には、そんなメッセージが込められているといいます。(※諸説あります)
 私川越っ子は、この唄は川越が発祥と信じてきましたが、大人になって、いろいろ調べてみますと、いろいろな説があるものだと、びっくりしています。
 







2020/06/11 10:12:01|その他
童謡「とおりゃんせ」について @
「通りゃんせ 通りゃんせ、ここはどこの細通じゃ、天神さまの細道じゃ、ちょっと通して下しゃんせ、御用のないもの通しゃせぬ、この子の七つのお祝いに、お札を納めにまいります、行きはよいよい、帰りはこわい、こわいながらも、通りゃんせ 通りゃんせ」

 三芳野神社は、1639年の川越城拡張整備により川越城内に取り込まれ川越城の鎮守となります。当時の川越城天神曲輪に鎮座したことにより、これ以降、一般庶民の参拝はできなくなったのです。「お城の天神様」と呼んでいました。その信仰心の篤い庶民の姿を見た当時の藩主は、年に一度の三芳野神社大祭と七五三のお祝い時のみ参拝を許しました。
一般庶民が、絶対に入れない城内に入るのですから、警備上の理由からも狭い参道にして警備の目を光らしていたのです。
 江戸幕府が安定してた時代に、各藩のもっとも恐れているのは、“密偵”などによる機密漏洩。場合によっては、お家取り潰しなどという事態も招くのですから、一大事で、そのような中で、一般庶民を入城させることは墓穴を掘るようなものです。そこで警備はより厳重になります。当然入場の際のチェックはあったはずで、「御用のないもの通しゃせぬ」という歌詞にも表れている通り、それなりの厳しいチェックがされたものと推測されます。それでも「行きはよいよい、帰りはこわい」と唄われているのは、入場の際は怪しい者だけを外見からチェックするだけですが、退場の際は機密書類等を持っていないか所持品のチェックをしたものと考えると、入場より退場の方がより厳しいことになります。これが“帰りはこわい”と唄われた根拠と推測されているのです。
 この童謡についてはいろいろな説があります。設定場所はどこか、何を意味しているのか、いろいろな学者先生が諸説解いています。
 私たち川越っ子は川越の三芳野神社であってほしいと思います。そう信じて今日まで来ました。