≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/06/12 11:29:57|その他
童謡「とおりゃんせ」について B
「通りゃんせ 通りゃんせ、ここはどこの細通じゃ、天神さまの細道じゃ、ちょっと通して下しゃんせ、御用のないもの通しゃせぬ、この子の七つのお祝いに、お札を納めにまいります、行きはよいよい、帰りはこわい、こわいながらも、通りゃんせ 通りゃんせ」
 この唄の少し古い形を、江戸時代までさかのぼると「御用のないもの」というところが「手形のないもの」となっているようです。そうしてみるとこの唄は関所に関連があるのではないかと推測できます。
 徳川氏は西国の諸藩から江戸を守るために、箱根の関所をつくり通行のチェックを厳重にした。関所手形のないものは絶対に通行が許されなかった。
 しかしそうした裏面にも、「親の重病とか、主人の危篤など」という火急の場合で、どうしても手形をうけるいとまがないときは、関所の役人に哀願すると、表向きは拒否するが、「こらこら貴様はこちらの方から参ったのにそちらに参るとは不都合な奴だ」といって、わざと来た方向と反対の方に出してくれた。いわゆるお上のご慈悲である。
しかし、用事が済んで帰るときには、再び寛大にあずかるわけにはいかない。はて、どうしたものだろうと大いに苦慮せねばならない。
そこで、「行きはよいよい、帰りは怖い、怖いながらも通りゃんせ」という文句が出てくる。この関所説は「日本遊戯誌」という本に出来るようである。これが真実かどうかわかりかねます。川越っ子の私としては信じたくはありませんが、このような説もあるということを記しておきます。
 

 







2020/06/11 12:11:42|その他
童謡「通りゃんせについて」 A
「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ ちっと通して下しゃんせ 御用のない者通しゃせぬ この子の七つのお祝いに 御札を納めに参ります 行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」
 
どうして「帰りは怖い」のでしょうか?
 昔は現代と違い、生まれた子供がすぐに死んでしまうことは、そう珍しくもありませんでした。だから、ある程度身体がしっかりと育ち、抵抗力をつける7歳までは「神様の子」と思うことにして、死んでも「元々神様の子なんだから、神様の元へ帰っただけなのだ」と解釈することで、自らを慰めていたのです。しかし、どうにか7歳まで成長したら、もうその子は「人間の子」となり、神様の子ではなくなります。七五三とは、いわば「この子を人間の子として、私の子としてお認め下さい」と神様にお願いする儀式で、子供の魂をその身体とこの世に定着せしめることが目的でした。かくして7歳になった子供は、もう神様も守ってくれません。自分の力で、そして親子や家族、地域と助け合い、共に生きていかねばならないのです。そのことを実感するにつれ、帰り道はどんどん恐ろしくなっていく。でも、恐ろしくても生きねばならない。この唄には、そんなメッセージが込められているといいます。(※諸説あります)
 私川越っ子は、この唄は川越が発祥と信じてきましたが、大人になって、いろいろ調べてみますと、いろいろな説があるものだと、びっくりしています。
 







2020/06/11 10:12:01|その他
童謡「とおりゃんせ」について @
「通りゃんせ 通りゃんせ、ここはどこの細通じゃ、天神さまの細道じゃ、ちょっと通して下しゃんせ、御用のないもの通しゃせぬ、この子の七つのお祝いに、お札を納めにまいります、行きはよいよい、帰りはこわい、こわいながらも、通りゃんせ 通りゃんせ」

 三芳野神社は、1639年の川越城拡張整備により川越城内に取り込まれ川越城の鎮守となります。当時の川越城天神曲輪に鎮座したことにより、これ以降、一般庶民の参拝はできなくなったのです。「お城の天神様」と呼んでいました。その信仰心の篤い庶民の姿を見た当時の藩主は、年に一度の三芳野神社大祭と七五三のお祝い時のみ参拝を許しました。
一般庶民が、絶対に入れない城内に入るのですから、警備上の理由からも狭い参道にして警備の目を光らしていたのです。
 江戸幕府が安定してた時代に、各藩のもっとも恐れているのは、“密偵”などによる機密漏洩。場合によっては、お家取り潰しなどという事態も招くのですから、一大事で、そのような中で、一般庶民を入城させることは墓穴を掘るようなものです。そこで警備はより厳重になります。当然入場の際のチェックはあったはずで、「御用のないもの通しゃせぬ」という歌詞にも表れている通り、それなりの厳しいチェックがされたものと推測されます。それでも「行きはよいよい、帰りはこわい」と唄われているのは、入場の際は怪しい者だけを外見からチェックするだけですが、退場の際は機密書類等を持っていないか所持品のチェックをしたものと考えると、入場より退場の方がより厳しいことになります。これが“帰りはこわい”と唄われた根拠と推測されているのです。
 この童謡についてはいろいろな説があります。設定場所はどこか、何を意味しているのか、いろいろな学者先生が諸説解いています。
 私たち川越っ子は川越の三芳野神社であってほしいと思います。そう信じて今日まで来ました。
 







2020/06/10 11:04:43|その他
「川越に誕生した銀行が発行した紙幣」
八十五銀行が発行した紙幣
 明治6年7月に東京に国立の銀行が誕生した。12年11月までに全国で153の国立銀行が誕生。明治11年11月、県内唯一の85番目の国立銀行が川越に誕生した。
 銀行設立の話が持ち上がったのは明治10年ころから、発起人は綾部利右衛門、黒須喜兵衛、横田五郎兵衛、小川五郎右衞門、山崎嘉七、西村半右衛門、沼田治兵衞など河越藩の御用商人の系統が多かった。11年3月設立願いを提出11月開業免状下附、12月南町の横田五郎兵衛の屋敷の一角を借りて開業という経過をたどった。
 資本金は20万円、1株の額面は100円、株主層は川越の商人たちが最も多く、川越、松山の士族も多数参加したという。
紙幣発行は、資本金の80%、16万円が許された。5円紙幣2万2千400枚(112,000円)、1円紙幣4万8千枚(48,000円)となっている。
かくて、20年の営業期間を迎えた第85国立銀行は、明治31年私立第85銀行に改組された。改組された銀行は時を経て、昭和18年の一県一行主義の合同勧奨により、武州銀行、忍商業銀行、飯能銀行と合併し、名を埼玉銀行と改め、最近までこの名前は継続された。埼玉銀行も他の銀行と合併し、今や名前が薄れていくのは淋しい気持ちです。
*発行された1円紙幣には、黒須喜兵衛、山崎嘉七の名が確認できる。
(川越の歴史資料参考)
 







2020/06/09 15:10:34|その他
「伊佐沼の大片貝」伝説
 伊佐沼は昔はもっと広く、中ほどには小さな島があったという。島には薬師堂があり、行基作という像が本尊であったという。眼の病気に霊験があらたかであると知られ、近郷近在からの人が絶えなかった。そして、この沼には沼ができたときから棲んでいるという大片貝もいた。
 ある時、大雨が続き沼があふれた。薬師堂のある小島はひとたまりもなく沈みかけたが、沈むどころかどんどん浮き上がっていくのだった。これは、沼の主である大片貝が小島の下にいて、薬師様を背負ってお守りしていたからであるという
それで薬師堂は水に浸かったり流されたりすることはないのだそうな。薬師堂のある伊佐沼はその風景のすばらしさから「三芳野八景」の一つとしても数えられ、九十川の水源にもなっている。
 今は沼の中には、薬師堂はないが、沼から少し離れたところにあります。 (川越の伝説)