≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫
私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
プロフィール
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miyabi-kawagoe
■自己紹介
私は川越市内の写真撮影を生きがいにしています。小江戸川越市街地の北のはずれで生まれて以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
■趣味
健康のためカメラを持って散歩していますと、そのご褒美か、写真のネタが舞い込んでくれろことを、期待して散歩しています。お目にかかったら声をかけてください。
■アクセス数
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2020/06/24 11:48:45|
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笑いと風刺の民話
「無筆の願書」
昔ある村に飢饉があって大変に困った。代官様に願い書を出すことになったが、誰も字が書けぬ。中で一人が、わしに考えがあるからといって引受けた。代官所では、願い書を受取って開いてみると、
一二三四五六七八九十
とあって、
終りに三と書いてある
。何のことか判じようがないので、書いた百姓を呼出してたずねると
、「一つ一つ申し上げます。二は苦々しく、三年この方、非常(しじょう)な飢饉で、五穀も、ろくろく稔らず、質に置くやら、恥をかくやら、食わずに苦しむ、十ケ村の難儀」とよんだ。代官は「それで判ったが、終わりの三は何か」というと、百姓は、「願い人横川三蔵」と答えた。
最初にだれが考えだした話かわからないが、これを伝えた農民たちは無筆なおろか者どころではなかった。「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」と治められ、「百姓は筆を持つより、くわを持て」といわれた世の中で、皮肉たっぷりに自分たちの知恵を語ったのである。
『川越地方昔話集』
に載っている笑いと諷刺の民話
写真は、昨日自宅で撮影した「あじさい」です。
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2020/06/23 12:01:12|
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幽霊と碁を打った和尚(川越の伝説)
幽霊と碁を打った唯一和尚
川越の通町に昔、孝顕寺という禅宗の寺があったが、城主松平大和守家のお供寺とて所変えの時に殿様に従って前橋に移転した。
ここの住職であった唯一和尚は、学徳兼備の人で、また大層と囲碁が好きであった。その碁相手は川越藩士の田村栄次であり、田村は剣を能くし、大川平兵衛門人中の逸足と呼ばれ、神道無念流の達人で、その将来が嘱望されていた。この田村がふとかりそめの風邪から病が重なってしまい、医師にも絶望視されて、最早その命は旦夕に迫ったと伝聞された。かつて剣に長じた若者とて、藩士達にも再起不能の重病が案ぜられていた。
田村は病臥中にいつも「今一度丈夫になって孝顕寺の唯一和尚と碁試合がしたい」と口ぐせに言っていた。ある日、この孝顕寺に藩士の舟戸某が和尚の許を尋ねると、お小僧が出て来て、和尚は今、書院で田村と碁を打っていると聞かされ、舟戸はびっくりした。田村なら今は、今日明日という臨終間近の容態との噂を知っているだけに驚いた。
寺の小僧の話には、いつものごとく紋服姿で、玄関から田村さんは書院に入り、和尚の碁相手になっていると話されて、これは不思議と思って、舟戸は直ちに、田村の屋敷のある城代家老の吉田筑後邸内に訪ずれるとまたびっくりした。田村の屋敷では、今病人が息を引き取ったと涙ながらの話で、家人が枕辺に看とっていた。
この話が城下町に広がり、或は田村と町中で出会った人もあるなどと当時噂とりどりであった。唯一和尚は、田村の霊魂が幽界人となって、いとま乞いに来て、最後にいつものごとく一石打ったのであると、禅僧だけに騒ぎもせず、静かに落着いていた。
唯一和尚は、尾州の生まれで、志士とも交わりが深く、勤王の志が厚かったと称されていた。学僧とて能書家であり、詩文も上手であった。文久元年五月に没しているが、その墓塔は喜多町の広済寺にある。これは所替えで、同宗の広済寺に墓塔が残されたものであろう。(川越の伝説より)
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2020/06/22 10:15:57|
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奴名主とお鷹の話(川越菅間地区の昔話し)
川越在の菅間村に織右衛門という代々名主の豪者がいた。
彼の家は、赤門と呼ばれた、村でも格式のあった旧家で、
丁まげから、奴名主と呼ばれ
ていた。ある日の夕方に、この村に突然、鷹匠の一隊が入り込んで来た。この日はどうしたことか、鷹匠のお鷹の具合が悪く、逸れ放されて姿をくらましてしまった。
ここにあわてふためいた鷹匠は、人足連を叱りつけながら、あたりくまなく走り回って捜索したが、鷹の行方はわからず大騒ぎとなった。
一方、話変わって村はずれで子供達が遊んでいると、夕闇の中に小鳩ぐらいの鳥がいるのを目ざとく見つけて、
面白半分に誰かが小石を拾って投げつけた。たちまち二〜三人で誰彼なしに石を投げつけるうちに、子供のなげた小石がみごとに鳥の頭に命中して、鳥は路上に死んでしまった
。子供達がよくよく、そばでみると、普通の鳥ではなく、それが鷹であることに気付いて、今さらに驚き、日頃鷹匠の恐ろしさを知っている子供達は散り散りに家に逃げ帰ってしまった。
一方、躍起となって鷹の行方を探し求めていた一行は、路傍に転死している鷹を見つけて、大騒ぎとなり、たちまち鷹匠連に報告したので、それっと全隊が押し寄せたが、肝心のお鷹の絶命のあとで、その死因が判然としないで血相変えて、名主の織右衛門の家に引揚げた。
鷹一羽でも公儀を笠に、人の命を絶ってしまうという封建時代のこととて、名主はすぐ村人の迷惑を助けようと思った。ここに直ちにいきり立つ鷹匠達も、次第によっては、自分達にもくる災難だと気付いて、すべてを名主に一任と決した。
ここで奴名主は大声で「お鷹さまがご病気だ」とたちまちに言い出した。「お鷹さまが急病で床についたから、即刻に
川越城から御典医を派遣されたい
」と言って、鷹匠にむかい「後のことは万事、私にお任せしていただきたい。決して迷惑かけません」と断言した。鷹匠達も名主の当意即妙の胸三寸の中を読んで、その意を察し、彼に従った。そこで武士達を急ぎ使者に立て、お鷹の見舞医を連れ立ててくれるよう手紙を持参した。
一方、奴名主は早速家人に命じて、静かに白の上蒲団と小枕を整えて鷹を上座に寝かせていた。やがて城中より御典医が到着し、その容態を検診しようと座するや
、直ちに奴名主はにじり寄って、「お鷹さま、急病につき種々介抱しましたが、療養の効なく、天命か人命及ばず遂に落命しまして」と黙礼した。御典医はこの意中を汲みとりて「御丁寧なるお取り扱いに感服した」と言ったので、並んでいたお鷹匠達までほっと安心した
。鷹匠もその後、威張らなくなった。(川越の伝説より)
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2020/06/21 11:26:37|
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半夏生
名前の由来は、半夏生の頃に花が咲くからとする説と、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」と呼ばれたのが「半夏生」になったとする説などがあります。また、古くはカタシログサ(片白草)とも呼ばれています。
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2020/06/21 11:21:51|
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アジサイ
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