川越の歴史を語るうえで、河越氏、太田氏(道真・道灌)など有名な方の名が出てきますが、河越氏と一緒に源頼朝にしたがって戦った「仙波七郎・次郎二郎という勇者の存在も歴史の中で認識すべきでありましょう。
ここに、仙波氏について検証してみたいと思います。
仙波氏は平安時代末期に、武蔵国入間郡仙波(川越市仙波)を拠点とし、地頭として南部一帯(現ふじみ野、富士見市、三芳町周辺まで)を所領した村山党の支族であります。
村山党は平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつで、平頼任が多摩群に興した一族で、入間郡一体で勢力を伸ばしました。 そのうちの一人である家継の子家信(
仙波七郎)を祖とするのが仙波氏で、家信は12世紀半ばに現在の新河岸川西側の高台に館(平山城)を構えたといわれています。その東の一角には
長徳寺があり、仙波氏の持仏堂から派生した寺院で冷水山清浄土院と号する喜多院の末寺で、川越市指定史跡で仙波氏館跡とされています。 仙波氏は、その南部一帯(ふじみ野、富士見、三芳ほか)に広域な荘園を構え、家信は仙波七郎と称した。保元の乱では、村山党の武将は、源義朝に従い武勲を示した。
承久の乱(1221年に日本で起こった朝廷と武家政権による初めての内乱)
では川越北西部の上戸を地盤とする河越氏に従い、宇治川の合戦では京方を破るも、仙波氏は家行、信恒など多くの戦死者を出した。 その後、安家の直系では仙波盛直が北条時輔の「二月騒動」(北条氏の家督争い騒ぎ)の内乱に連座して誅殺される。
応安元年(
1368年)の武蔵国・相模国・伊豆国を中心とした国人一揆である平一揆のうち、河越氏当主の河越直重を中心とした武蔵の国の国人が、関東管領上杉憲顕に対して起こした反乱一揆(
武蔵平一揆)では、他の村山党諸氏と同じく
河越氏に従って挙兵するも敗北、仙波氏も衰退する。
その後は仙波二郎のように室町幕府に仕え、享徳の乱以降は扇谷上杉氏に従うが河越夜戦で上杉氏が衰退すると後北条氏の家臣となる。仙波久種は鶴岡八幡宮造営奉行に任命され、その子・仙波次種は北条氏政に仕えた。以降、相模国や伊豆国に知行を得、江戸時代の旗本の仙波氏の家系が生まれた。
※ 写真は新河岸川の中の落ち葉「小さな秋」