≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/07/13 9:31:56|その他
「ごぜ橋」のいわれ(盲目の瞽女さんが架けた橋)
川越の人物誌女性偏に「小谷野ひめ」という人の偉業が掲載されている。
 
この方は三味線を弾き、唄をうたいながら門付けをする盲目の人(瞽女)のひとりと言われています。この方の名前が出てくるのは、安比奈新田と柏原を流れる戸加川に架設された石橋に「享保3年・武州柏原小谷野ひめ建」と刻まれていたことに由来します。雪深い東北などから、数人でこの地にやってきたのであろうといわれています。瞽女さんはたいてい4〜5人でやってくるが「ある時入間川沿いの道を歩いていて安比奈の水久保あたりの細い木橋を渡りかけ、誤って落ちて亡くなったという。これを哀れんだ村人は、残された瞽女さんの暮らしを支え、瞽女さんは門付けをしながら、橋架け替えの資金を蓄え、かくして村人と瞽女さんの間に橋という共通の目標が生まれ、石の橋を架け、それ以後、この橋を「ごぜ橋」というようになったということです。
川越を彩る女性群像の中で、異郷のこの地で献身と博愛の架け橋を見ることができることは素晴らしい功績であると思います。270余年も昔のことであるという。
今ここは昭和35年にコンクリートの橋に架け替えられていますが、付近の人たちはいまもなお「ごぜ橋」と呼んでいるということです。
 この伝説は柏原では聞かれないということで、安比奈に住んでいて、後に柏原に移ったのではないかともいわれています。







2020/07/12 10:45:49|その他
川越大火の概要(毎日新聞記事)
苦闘する県民/町の四割を焼いた川越の大火中心街をひとなめ
(毎日新聞社浦和支局)
 冬のなごりをとどめた西北の風が激しく吹き抜ける明治二十六年(1893年)三月十七日夜。午後八時十五分、一瞬、風がとまったかにみえたとき、けたたましく半鐘がなった。「南町の養寿院の門前が火事だぞ!」「風が強い。気をつけろ」人々の騒ぐ間をぬって、町の消防夫は総出で走った。しかし、連日の晴天つづきで、各家の屋根板はカラカラ。風に乗って、火の勢いは落葉を焼くように広がった。南町養寿院門前の北横町、皆川某方から出た火は、本町、多賀町をなめ尽くして下松江町、連雀町へ。さらに志義町、鉄砲町、猪鼻町など計十七町を全焼、小仙波村や喜多町にまで飛び火した。
 アッという間に、火は土蔵と土蔵の間をぬって燃え広がった。焼け落ちた戸数は実に1302戸。同年一月の調査で川越町の戸数は3315戸だったから、四割近くが焼失したわけだ。
 しかも、そのほとんどが町の中心部。寺三つと銀行、電話局も焼けた。焼死者や負傷者は幸いになかったが、火の回りが早かったため、家財道具を持ち出す暇さえなかった。一晩で全財産を失った人々は道路にうずくまった。被災者は学校や寺院など十一ヵ所に設けられた救助所に集まり、救助米を受け取って飢えをしのいだ。
 川越の大火はこれが始めてではない。明治二十一年三月二十二日にも、高沢町で百二十戸がやけた。この日午後三時二十分ごろ、同町の糸商丸松¥シ井治兵衛方から出た火は、南東の風にあおられて東西に飛び火。三時間も燃え続けてようやく鎮火した。町の消防力といっても手押しポンプがせいぜい。ちょっとした火事でも手を焼いた。この二つの大火で川越町民は火事に対して深い反省を呼びさまされた。当時の川越は有名な商業の中心地。裏に土蔵を三つも四つも構えているところは多かったが、表通りの店はかわらぶきか、杉皮ぶきの板屋根が普通だったから燃えるのも早かった。 
ところがこの大火でもびくともしない建物があった。土蔵を店舗にして、重い棟瓦をのせ、厚い壁で塗りあげたいわゆる蔵造りの店である。江戸時代天保の飢饉≠フ時、失業対策事業としてつくられたこの店蔵は、壁の厚さ二十センチ、土戸の厚さ六センチという頑丈なものだった。
 今日川越にある蔵造りの店は、ほとんどが大火後三年ほどの間に建てられたものだ。
 大火の二日後、林県知事が視察、百円を救助費の中へ寄付、県の役人もそれぞれ月給の二十分の一を贈ることにした。東京では県出身の実業家渋沢栄一、代議士高田早苗らが義援金を募集、現金五千六百九円十六銭四厘のほか、米、しょうゆなどが集まった。 という記事を見つけました。私も川越生まれで川越の大火の話は聞いていましたが、ここまで詳しくは知りませんでした。

写真は川越氷川神社の祭典行列 以前のものです。今年は開催はないでしょう。
 







2020/07/11 11:59:16|その他
川越における太田道灌の屋敷跡
太田道灌の屋敷跡
 新編武蔵風土記稿の東明寺村、照善院の項によれば、「この寺院は、天台宗行人派、江戸普門院の門徒で長久山と号し、この寺地は、元太田道灌の居住したところであり、今もその跡として一反(300坪)あまりの地が残る。寺内には大日堂、妙義社がある」と記されているということです。
 現在の志多町8番地4、ここは昭和36年川越市の町名地番変更により、宮元町から志多町に編入された場所です。当時ここには妙義神社がありました。妙義神社は宮元町の氏子によって管理されていましたが、街の区域が変更になったため、宮元町に移転されています。この、妙義神社を訪ねてみると、照善院の石仏が残されていて、照善院は実在したのです。
 境内の看板によると、1877年(明治10年)、火災によりすべての建物が消失したとありました。その後、1904年(明治37年)に妙義神社の社殿のみが再建されたとのことです。
 したがって、妙義神社の移転前の場所、現在の志多町8番地4付近が太田道灌の屋敷跡と推定されます。 
 ところで、父である太田道真屋敷はどこだったのでしょうか。新編武蔵風土記稿の高澤町の項では、現在の元町2丁目8番地12、高沢橋のたもとの六塚稲荷神社近辺に居住していたと記されていろということです。

越生町には太田屋敷や太田道真の墓などが存在し、晩年は越生にて隠棲していたということです。

いずれにしても、太田道灌ほどの人物は、川越や江戸ほか幾多の地に住まいしていたようで各地に太田道灌屋敷の存在があるようです。
(川越の歴史より)







2020/07/10 10:49:30|その他
梶原の池(川越の伝説)
 池辺の熊野神社の東にある「梶原の池」
あるとき、源頼朝は那須野(栃木県北部)へ狩りに行っての帰路、川越の池辺(いけのべ)あたりまで来たところで、当座の余興として、おもだった家臣と馬の疾走競走をした。なにせ那須から旅を重ねてきたので、人間も馬も疲れていたが、負けずぎらいの頼朝のことだから、それを強行したのである。 参加した者も、内心ではあまり気が進まなかったが、手心を加えてご主君をわざと勝たせるようなことをすると、あとでどんなおとがめを受けるかわからないので、全員全力疾走した。ところが、頼朝の馬が途中で悲鳴をあげてしまい、動かなくなってしまったのである。やむをえず競争を中止して、馬を休ませることにした。
 池辺一帯は、彼の有力な家臣の一人である梶原平蔵景時の所領で、その辺の地理をよく知っていたので、さっそく頼朝を案内して清水の湧き出る小さな池へつれてきた。ただちに馬に水を飲ませたり、冷たい水を何回もかけて足腰を冷やしてやった。しばらくすると、馬はすっかり元気をとり戻したので、ふたたび競争が開始された。
 頼朝は最初から出足よく、ぐんぐん他の家臣を引き離し、とうとう優勝してしまった。彼が小踊りして喜んだことはいうまでもない。これはきっと、さきほど馬を休ませた池の水が、きいたからに違いないと、梶原平蔵に言葉をかける一方、それまで愛用してきた馬の鞍を沈めて感謝の意を表し、あわせて武運長久を祈ったのである。
 だから、この池の底には馬の鞍があって、池の主となっていると信じられており、それ以来、「梶原の池」と呼ばれるようになった。現在池辺の熊野神社の東にある池がそれで、弁天さまがまつられている。

※ 写真は家の庭のパイナップルフラワーのついていた3mmにも満たない小さな「はえ」超マクロ撮影でした。一瞬ハエの仕草が「手を摺る、足を摺る」というように感じました。







2020/07/09 10:54:53|その他
川越出身の歌人「杉浦翠子」
 杉浦 翠子(すぎうら すいこ)、明治18年〜昭和35年にかけての歌人。旧姓は岩崎翠。日本のグラフィックデザインの礎を築き多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の初代学長となった杉浦非水の妻でもある。洋画家岩崎勝平は甥。
 杉浦翠子は川越市に、父・岩崎紀一、母・サダの六人兄弟の三女として生まれた。旧姓は岩崎翠(いわさきみどり)。次兄の福沢桃介は福沢諭吉の娘婿となった大実業家。
 翠子が2歳のときに父、3歳で母と、それぞれ死別し、祖母に育てられる。  祖母が死去すると次姉・てるの嫁ぎ先である東京赤坂の出渕豊保に身を寄せ、国語伝習所、女子美術学校(現女子美術大学)を卒業する。出渕豊保宅の隣に豊保の友人の杉浦非水が居を構えていた。非水は翠子の若い美貌と詩才に激しく惹かれ、明治37年に二人は大恋愛の末、結婚する。翠子19歳、非水28歳であった。
 「日本の電力王」と呼ばれた兄・桃介に代表される拝金主義に激しく翠子は反発、デザインの世界に進む夫・非水の精神性に夢中になる。翠子は北原白秋に入門、大正5年にはアララギに入会、さらに斎藤茂吉に師事する。新進デザイナーと新鋭歌人という経済的に恵まれた夫婦は「モボ・モガ」としてマスコミで持て囃され時代の寵児となった。翠子は情熱的な作品を発表し続けた。
 激情的な翠子はアララギの編集兼発行人・島木赤彦らに疎まれ、翠子は大正12年にアララギを退会、社会性・批判精神を欠如したアララギの短歌を批判した。昭和8年、歌誌「短歌至上主義」を創刊(装幀は非水)、主宰者として主知的短歌を唱える歌風に転じた。代表作は、歌集に「寒紅集」「藤浪」「生命の波動」「みどりの眉」など。小説では「かなしき歌人の群」など。
昭和35年)2月16日、自宅で病没。最愛の夫・非水に5年先立つ死であった。港区白金にある時宗の寺・冬嶺山松秀寺に夫とともに眠る