≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/08/04 12:16:13|その他
「河越の歴史」 いよいよ徳川の時代になりました。
河越氏から始まった「河越の歴史」もいよいよ徳川家康の時代となった
 天正18年(1590)徳川家康は江戸城に入城し、ここを根拠地とした。
家康は入国と同時に江戸の城下町造りに努める。一方家臣団の知行割を急いだ。この知行割によって、酒井河内守重忠が1万石をもって川越に封じられる。
 酒井河内守重忠は雅楽助広親を祖とする三河以来の譜代の名門。雅楽助広親は三河の国幡豆郡酒井村に生まれたので、酒井を名乗った。酒井河内守重忠は天文18年三河国に生まれ、家康に仕え、関ヶ原の戦いをはじめ数々の戦に活躍している。
 川越藩の領地は川越を中心とした入間郡と高麗郡、比企郡の一部に及んでいた。江戸時代前期には、入間郡50ヶ村、高麗郡17ヶ村、比企郡15ヶ村の82ヶ村で後に開発村が加わり村の数は多くなっている。
 藩主が譜代大名で幕府の要職についていたという性格から、川越藩は幕府と密接なかかわりを持ち続けた。江戸時代に入ってからも戦国時代以来の北武蔵野押さえという役割は変わっていない。河越から府中、八王子、青梅、飯能、越生、秩父への街道は軍事産業上の重要な意味を持っていた。
 川越藩はこの軍事上の役割を踏まえ、これまでの本丸、二の丸、三の丸などに加え、新曲輪、南大手、中曲輪、西大手などが加えられた。川越城が大々的に改修されたのは、寛永16年松平信綱が入城してからである。
 
 
 







2020/08/03 16:51:41|その他
「河越の歴史」小田原城落城、川越城も・・・」
 川越城は扇谷上杉の命により築城された平城で、初雁城ともいいます。その後、北条氏が扇谷上杉氏を破り、以後小田原北条氏の支配のもと、小田原城の支城として城代がおかれました。
 天正10年(1582)山崎の合戦で明智光秀を倒した豊臣秀吉は、天下統一事業を進めるため、北条氏の支配する関東を制覇する決意を固め、北条氏政と手を結ぼうと考えたが、北条氏はこれに応じず、天正17年秀吉は、小田原征伐に乗り出すことになる。
 秀吉は伊達政宗に出陣を要請するとともに、自ら本隊を率いて小田原城を取り囲み、前田利家は大道寺政繁の籠る上州松井田城を攻めた。やがて、松井田城が落ち、次々と各地の支城が落ちてゆく中で、天正18年北条氏は、ついに小田原城を明け渡し、降伏した。北条氏政・氏照と共に家臣の大道寺政繁・松田憲秀も切腹、この時川越城の城将は、政繁の子大道寺直繁、城代は大道寺隼人だった。
 小田原城開場と前後して川越城も開城、直ちに蓮馨寺・見立寺などをはじめとする、大道寺氏ゆかりの寺などに対する乱暴狼藉を禁じるおふれが出された。
 河越をはじめ武蔵一円は、前田利家の軍によって警備され、やがて、徳川家康に引き継がれた。
 







2020/08/03 11:31:01|その他
「河越の歴史」 河越夜戦により山之内・扇谷上杉氏壊滅
 川越城を奪われたことにより、南武蔵が後北条氏のものになったことは、上杉氏としては我慢ならないことで、奪い返す機会をうかがっていた。
 天文14年(1545)後北条氏が駿河の今川氏と戦っているのをいいことに、山内・扇谷両上杉は力を合わせて、最後の本拠地である上野から兵を集めて奥州街道を南下し、狭山市柏原、川越市の砂窪(砂久保)に本陣を置き、川越城を囲んだ。
一方これまで上杉氏とは犬猿の仲であった古河公方も、後北条氏の力が増大になるのを恐れて、川越城包囲軍に参加することになった。後北条氏という共通の敵ができたとたん、皮肉にも公方と管領の同盟が結ばれたのだ。

 駿河にいた北条氏康は、天文15年わずかの兵を率いて川越城の救援に向かった。この時の合戦も先の川越城攻略の時と同じ夜戦であった。氏康側の軍は川越城包囲軍に比べ、あまりにも小勢であったが、再び夜戦に持ち込んでの見事な奇襲攻撃により、勝利を収めた。
この戦いで扇谷上杉朝定は23歳の若さで他界、長期間にわたり南武蔵を統括してきた扇谷上杉氏は滅亡した。また、扇谷上杉朝定に加勢して管領家の権威を回復しようとした山内上杉憲政は分国上野の平井城に逃れ、さらに、 後北条氏に追われて越後に入り、長尾景虎のもとに身を寄せ、長尾景虎を養子にして関東管領職を譲り、景虎も上杉姓を名乗り「上杉謙信」となり、後北条氏の当面の敵となった。したがって後北条氏は、北に備えることが、いちばん心を用いることとなった。
 







2020/08/02 11:20:15|その他
河越の歴史「小田原北条、上杉氏を河越から追放」
小田原の北条が上杉追放に成功
 道灌の死は、戦国の世といわれる乱世に入って9年目、力を持つ守護大名や各地に起こった戦国大名が領地を広げ、やがて天下を取ろうと野心を抱いていた。それには、まず、江戸・河越・岩槻などをはじめとする上杉氏の勢力をつぶすことが必要だった。こうした情勢のもとにあって、伊豆から相模の小田原に出てきた北条早雲は、源頼朝以来の武蔵を手に入れるため、じわじわ進出を始め、江戸・河越・岩槻の3城を落とすことを当面の目標として、気長くじっくり一歩一歩確実に進むことにしたことがうかがえる。
 大永4年(1524)後北条氏は江戸を攻め、城主上杉朝興は河越城に逃れた。続いて翌年には管領家の家臣である岩槻城の太田氏を攻略する。しかし、後北条氏は上杉朝興が逃げ込んだ河越城をすぐに攻撃せずに、天文6年(1537)に幼い朝定が跡を継いだこの時を逃さず攻め込んだ。 北条氏綱は7月11日数万の兵を率いて、武蔵野を進み、15日には狭山市の三木の原に陣を敷いた。
 一方、城主上杉朝定を川越城に残したまま、叔父の上杉朝成は大軍を率いて、三木の原で迎え討つことになった。
 旧暦の7月15日は満月の夜、両軍は激戦を繰り広げた。叔父上杉朝成は捕らえられたため、川越城の上杉方は惨敗となり、城主朝定は南畑出身の難波田弾正の籠る松山城に逃げた。
こうして多数の死傷者を出した戦いで上杉氏は敗北し、南武蔵は後北条の勢力下に入った。
 







2020/08/01 11:28:02|その他
太田道灌が主君上杉定正に殺された。(河越の歴史)
 長禄元年(1457)に造られた江戸、河越、岩槻の三城は、扇谷上杉氏が古河公方に備えるために太田道真・道灌父子が築いた城、
 築城から10年、川越城で隠居生活をおくっていた主君扇谷上杉持朝が亡くなり、その後20年間は、太田道灌の大活躍の時期であった。当時、上杉氏は古河公方に備えなければならず、また、山内上杉の重臣長尾景春やこれと組んで武蔵・相模の反上杉勢力に取り囲まれていた。さらに、同じ上杉氏の宗家である山内上杉氏との仲も、勢力争いからこじれがちになっていた。この難しい情勢の中で、扇谷上杉氏が関東の武将としてやってこられたのは、戦略家としての道灌の働きが大きかったからだということです。
 ところが、文明18年(1486)に、太田道灌が主君扇谷上杉定正によって殺された。これは道灌のために扇谷上杉氏が上に立つことを恐れた山内上杉氏が、「道灌が謀反を起こそうとしている」と扇谷上杉定正に吹き込んだのがきっかけだといわれています
 優れた戦略家を自らの手で葬った扇谷上杉氏は当然のようにやがて衰退の一途をたどることになります。