河越氏から始まった「河越の歴史」もいよいよ徳川家康の時代となった。 天正18年(1590)徳川家康は江戸城に入城し、ここを根拠地とした。 家康は入国と同時に江戸の城下町造りに努める。一方家臣団の知行割を急いだ。この知行割によって、酒井河内守重忠が1万石をもって川越に封じられる。 酒井河内守重忠は雅楽助広親を祖とする三河以来の譜代の名門。雅楽助広親は三河の国幡豆郡酒井村に生まれたので、酒井を名乗った。酒井河内守重忠は天文18年三河国に生まれ、家康に仕え、関ヶ原の戦いをはじめ数々の戦に活躍している。 川越藩の領地は川越を中心とした入間郡と高麗郡、比企郡の一部に及んでいた。江戸時代前期には、入間郡50ヶ村、高麗郡17ヶ村、比企郡15ヶ村の82ヶ村で後に開発村が加わり村の数は多くなっている。 藩主が譜代大名で幕府の要職についていたという性格から、川越藩は幕府と密接なかかわりを持ち続けた。江戸時代に入ってからも戦国時代以来の北武蔵野押さえという役割は変わっていない。河越から府中、八王子、青梅、飯能、越生、秩父への街道は軍事産業上の重要な意味を持っていた。 川越藩はこの軍事上の役割を踏まえ、これまでの本丸、二の丸、三の丸などに加え、新曲輪、南大手、中曲輪、西大手などが加えられた。川越城が大々的に改修されたのは、寛永16年松平信綱が入城してからである。 |