≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/07/31 10:41:02|その他
河越氏が去った後の河越は
 河越氏が去った後の河越
鎌倉公方であった足利成氏は、自身が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢によって制圧されてしまう。足利成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総国古河に拠点を構えた事から以後古河公方と呼ばれ、室町幕府の支持を得た上杉氏と関東を二分する争いになった。
 武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。
 







2020/07/31 10:02:04|その他
東明寺檀徒俳人「大野一水」さんの句
陽を恋うて睦み合う鳩冬の寺  一水







2020/07/29 15:08:00|その他
河越氏「河越における終焉」
 貞治6年(1367年)、鎌倉公方基氏と室町幕府将軍足利義詮が相次いで死去。権力の空白状態が生じた。基氏の後継者氏満はいまだ幼少であり、後見する上杉憲顕が再び平一揆の勢力削減に動く可能性があった。一方で長年鎌倉府の直属軍団として広範囲に征旅を行った結果、周辺勢力との対立の火種も多く燻っており、積年の課題を直接行動で打破しようとする機運が一揆側、反一揆側共に高まっていた。
 応安元年上杉憲顕が上洛した隙を狙い、平一揆のうち河越直重を中心とする武蔵国の平一揆が蜂起した。
 河越直重を大将に一族の高坂信重や江戸氏・高山氏・古尾谷氏、村山党、仙波氏、山口高清、金子家祐など地元の武士が、居城の川越館に篭り、江戸牛島(現墨田区)には別働隊を置いた。この作戦は、河越から江戸まで占領することにより、鎌倉府と憲顕の本拠地上野国を南北に結ぶ鎌倉街道を封鎖し、その連携を絶とうとしたものとされる。
 上杉憲顕はすぐには帰国せず、政治工作を進め、幕府を味方に付けた。上杉朝房は基氏の後を継いだ足利氏満(当時10歳)を擁して河越に出陣。憲顕や武田氏・葛山氏らの軍勢の動員もあり、河越における合戦で反乱は鎮圧された
  河越での戦いに勝利した鎌倉・上杉軍は、越後で挙兵した新田義宗らと、上野国において両軍は衝突し、激戦となったが、兵数に劣る新田勢は壊滅した。
 河越直重らは南朝の北畠顕能を頼って伊勢の国へと敗走し、領地はすべて没収された。その他の参加者も領地を減らされ失脚、武蔵平一揆という連合体は歴史上から姿を消すことになる。(川越の歴史資料を参考)

武蔵平一揆の乱 
とき  応安元年(1368年)2月25日〜6月17日
場所  武蔵国
結果  鎌倉・上杉軍の勝利
交戦勢力  反一揆側指揮官 上杉憲顕 上杉朝房
     (鎌倉府、上杉氏、甲斐武田氏、葛山氏、相模平一揆)
      一揆側指揮官    河越直重 高坂信重
     (河越氏、高坂氏、江戸氏、高山氏、古尾谷氏、新田氏、村山党)




 







2020/07/28 11:04:55|その他
河越氏の活躍の頃
 河越にやってきた重隆の子能隆は一族の畠山重忠・江戸重長などとともに平家方にき、頼朝方の三浦氏と戦って、三浦氏を討ち取るなどがありました。しかし、武蔵や相模の武士たちは、八幡太郎源義家以来、四代にわたる源氏への恩を思っていました。やがて河越太郎重頼は畠山重忠・江戸重長などとともに、頼朝方について平家追討に多くの手柄をたてました。そんなところから頼朝に信頼され、頼朝の乳母(比企尼)の娘を妻に迎え、そして、頼家が生まれると、重頼の妻もまた頼家の乳母として鎌倉に参り、重頼の娘は頼朝の弟の義経に嫁ぎました。  こうして、河越・畠山などの一族は義経の配下に入り平家追討に大いに活躍をしましたが、頼朝・義経の中が悪くなり、義経が妻とともに平泉で討ち死にしますと、義経の義父ということで、子重房とともに殺されてしまいました。
 しかし、重頼の妻(河越尼)が頼家の乳母ということもあり、頼朝の計らいで、河越庄は、重頼の妻(河越尼)に与えられ、重頼の三男重員が「武蔵国留守所総検校」として、相変わらず幕府に重きをなしたことに成ります。

※ 昨日は植木の葉が虫に食われているので、探しているとき、うっかり葉の裏の毛虫に触れ、大いに痛い目にあいました。通称電気虫(イラガ)という毛虫で、柿などについている虫です。







2020/07/27 15:23:05|その他
河越の郷族「河越氏」はどこから来たのか?
 大和朝廷は地方をおさめるために、国々に都から貴族を国司としてつかわしました。国司の任期は四年でしたが、任期が切れても都に帰るよりは、そのまま住み着いて、新しい土地を開いて、自由な生活をおくることを望むようになり、 こうして、武蔵七党とか坂東八平氏といわれるような、桓武天皇から出た桓武平氏や清和天皇から出た清和源氏をはじめ、多くの貴族が一族の統領(かしら)となって地方に勢力を振るいました。
 これらの中に、桓武平氏の出で、秩父の中村に住み、秩父氏を名乗った平将常の四代目の重綱の子重隆は、河越の地にやってきて、河越氏を名乗りました。河越氏は秩父盆地の狭苦しいところから下流の豊かな土地を求めてやって来たことは明らかです。ここから河越氏の歴史が始まることになります。
 
 ※ 同じ頃 重隆の兄弟の一人は飯能の高山に住み、高山氏を名乗り、
   また、もう一人に兄弟は江戸氏を名乗っているということです。
   重綱の孫の重能は畠山氏を名乗り、有名な畠山重忠は重能の子に
   あたります。