≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/08/07 10:36:02|その他
パロディ俳句(笑える俳句)
インターネットで俳句の本を探していたら、「ギャ句」というのを見つけました。
この本によると、「ギャ句」を作るには、本物の原句がわからなければ、パロディ俳句は難しい。そこで、本物の句の勉強をする興味が出てくるという。

  原 句 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
  ギャ句 芋食えば 尻が鳴るなり 放流時 というのがありました。
  
  川柳では、 屁をひって  思わずうしろ 振り返る
  こんなこと ありませんか!!







2020/08/06 10:36:01|その他
人生訓 「ピンチをチャンスにする」
人類の歴史は夢に挑んできた歴史である。文明史は夢の挑戦史といってもいい。夢に挑み、幾多の困難を乗り越えて夢を実現した人たちには等しく共通したものがある。困難を「障害物」でなく「跳躍台」にしたことである。「すべての逆境にはそれと同等かそれ以上に大きな恩恵の種子が含まれている」とナポレオン・ヒルは言っているが、そのことを身体で知っていたということである。

今コロナ禍の時代、これをどう乗り越えるか、試練の時、これをぜひ「跳躍台」にしてほしいものです。それには「一人一人の自覚と分別が必要だと思います」
ここで盆帰省が行われます。帰省をやめる人も多くいるとは思いますが、コロナ禍は人が動けば、頻発することは必至です。十分注意しましょう。







2020/08/05 14:15:34|その他
「川越の歴史」歴代の川越の城主
 天正18年(1590)江戸城に入った徳川家康は、川越城を重要な城とみて、三河以来の家臣の酒井重忠を初代川越城主にした。これが川越藩主の誕生である。以来廃藩になるまで8家21人の藩主を数える。
歴代の川越城主
(酒井重忠、老中酒井忠利、大老酒井忠勝、老中堀田正盛、老中松平信綱、松平輝綱、松平信輝、大老格柳沢吉保、老中秋元喬知、秋元喬房、秋元喬求、老中秋元涼朝、松平朝矩、松平直恒、松平直温、松平斉典、松平典則、松平直侯、松平直克、老中松平康英、松平康載)
 江戸に最も近い城として、重要視されていた川越城の城主の多くは、幕府の要職にあったので、権威は相当高かったといえる。歴代の城主の中では、知恵伊豆といわれ、川越藩政に大きな功績をたてた、松平信綱がよく知られている。また、柳沢吉保は、将軍綱吉に最も気に入れられた重臣の一人であった。
初代川越城主酒井重忠の時1万石であったが、松平大和守の時代には17万石となる。川越城が大々的に改修されたのは、老中松平信綱が入城した、寛永16年(1639)からである。
 ところで、川越城には天守閣がないといわれているが、天守閣の代わりをつとめる櫓があった。櫓は、ある程度の高さを備えた建造物であったことがうかがえる。城中には3つの櫓が作られたが、この中の本丸一の高所に建てられたのが、高さ15M三層造りの「富士見櫓」である。関八州の近世の城には、天守閣がないのが普通だが、これは物見という需要が薄れたのと幕府の城増改築規制もあり、天守という呼称を遠慮して小規模の櫓をたてることが多かったと思われる。
 







2020/08/04 12:16:13|その他
「河越の歴史」 いよいよ徳川の時代になりました。
河越氏から始まった「河越の歴史」もいよいよ徳川家康の時代となった
 天正18年(1590)徳川家康は江戸城に入城し、ここを根拠地とした。
家康は入国と同時に江戸の城下町造りに努める。一方家臣団の知行割を急いだ。この知行割によって、酒井河内守重忠が1万石をもって川越に封じられる。
 酒井河内守重忠は雅楽助広親を祖とする三河以来の譜代の名門。雅楽助広親は三河の国幡豆郡酒井村に生まれたので、酒井を名乗った。酒井河内守重忠は天文18年三河国に生まれ、家康に仕え、関ヶ原の戦いをはじめ数々の戦に活躍している。
 川越藩の領地は川越を中心とした入間郡と高麗郡、比企郡の一部に及んでいた。江戸時代前期には、入間郡50ヶ村、高麗郡17ヶ村、比企郡15ヶ村の82ヶ村で後に開発村が加わり村の数は多くなっている。
 藩主が譜代大名で幕府の要職についていたという性格から、川越藩は幕府と密接なかかわりを持ち続けた。江戸時代に入ってからも戦国時代以来の北武蔵野押さえという役割は変わっていない。河越から府中、八王子、青梅、飯能、越生、秩父への街道は軍事産業上の重要な意味を持っていた。
 川越藩はこの軍事上の役割を踏まえ、これまでの本丸、二の丸、三の丸などに加え、新曲輪、南大手、中曲輪、西大手などが加えられた。川越城が大々的に改修されたのは、寛永16年松平信綱が入城してからである。
 
 
 







2020/08/03 16:51:41|その他
「河越の歴史」小田原城落城、川越城も・・・」
 川越城は扇谷上杉の命により築城された平城で、初雁城ともいいます。その後、北条氏が扇谷上杉氏を破り、以後小田原北条氏の支配のもと、小田原城の支城として城代がおかれました。
 天正10年(1582)山崎の合戦で明智光秀を倒した豊臣秀吉は、天下統一事業を進めるため、北条氏の支配する関東を制覇する決意を固め、北条氏政と手を結ぼうと考えたが、北条氏はこれに応じず、天正17年秀吉は、小田原征伐に乗り出すことになる。
 秀吉は伊達政宗に出陣を要請するとともに、自ら本隊を率いて小田原城を取り囲み、前田利家は大道寺政繁の籠る上州松井田城を攻めた。やがて、松井田城が落ち、次々と各地の支城が落ちてゆく中で、天正18年北条氏は、ついに小田原城を明け渡し、降伏した。北条氏政・氏照と共に家臣の大道寺政繁・松田憲秀も切腹、この時川越城の城将は、政繁の子大道寺直繁、城代は大道寺隼人だった。
 小田原城開場と前後して川越城も開城、直ちに蓮馨寺・見立寺などをはじめとする、大道寺氏ゆかりの寺などに対する乱暴狼藉を禁じるおふれが出された。
 河越をはじめ武蔵一円は、前田利家の軍によって警備され、やがて、徳川家康に引き継がれた。