≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/07/11 11:59:16|その他
川越における太田道灌の屋敷跡
太田道灌の屋敷跡
 新編武蔵風土記稿の東明寺村、照善院の項によれば、「この寺院は、天台宗行人派、江戸普門院の門徒で長久山と号し、この寺地は、元太田道灌の居住したところであり、今もその跡として一反(300坪)あまりの地が残る。寺内には大日堂、妙義社がある」と記されているということです。
 現在の志多町8番地4、ここは昭和36年川越市の町名地番変更により、宮元町から志多町に編入された場所です。当時ここには妙義神社がありました。妙義神社は宮元町の氏子によって管理されていましたが、街の区域が変更になったため、宮元町に移転されています。この、妙義神社を訪ねてみると、照善院の石仏が残されていて、照善院は実在したのです。
 境内の看板によると、1877年(明治10年)、火災によりすべての建物が消失したとありました。その後、1904年(明治37年)に妙義神社の社殿のみが再建されたとのことです。
 したがって、妙義神社の移転前の場所、現在の志多町8番地4付近が太田道灌の屋敷跡と推定されます。 
 ところで、父である太田道真屋敷はどこだったのでしょうか。新編武蔵風土記稿の高澤町の項では、現在の元町2丁目8番地12、高沢橋のたもとの六塚稲荷神社近辺に居住していたと記されていろということです。

越生町には太田屋敷や太田道真の墓などが存在し、晩年は越生にて隠棲していたということです。

いずれにしても、太田道灌ほどの人物は、川越や江戸ほか幾多の地に住まいしていたようで各地に太田道灌屋敷の存在があるようです。
(川越の歴史より)







2020/07/10 10:49:30|その他
梶原の池(川越の伝説)
 池辺の熊野神社の東にある「梶原の池」
あるとき、源頼朝は那須野(栃木県北部)へ狩りに行っての帰路、川越の池辺(いけのべ)あたりまで来たところで、当座の余興として、おもだった家臣と馬の疾走競走をした。なにせ那須から旅を重ねてきたので、人間も馬も疲れていたが、負けずぎらいの頼朝のことだから、それを強行したのである。 参加した者も、内心ではあまり気が進まなかったが、手心を加えてご主君をわざと勝たせるようなことをすると、あとでどんなおとがめを受けるかわからないので、全員全力疾走した。ところが、頼朝の馬が途中で悲鳴をあげてしまい、動かなくなってしまったのである。やむをえず競争を中止して、馬を休ませることにした。
 池辺一帯は、彼の有力な家臣の一人である梶原平蔵景時の所領で、その辺の地理をよく知っていたので、さっそく頼朝を案内して清水の湧き出る小さな池へつれてきた。ただちに馬に水を飲ませたり、冷たい水を何回もかけて足腰を冷やしてやった。しばらくすると、馬はすっかり元気をとり戻したので、ふたたび競争が開始された。
 頼朝は最初から出足よく、ぐんぐん他の家臣を引き離し、とうとう優勝してしまった。彼が小踊りして喜んだことはいうまでもない。これはきっと、さきほど馬を休ませた池の水が、きいたからに違いないと、梶原平蔵に言葉をかける一方、それまで愛用してきた馬の鞍を沈めて感謝の意を表し、あわせて武運長久を祈ったのである。
 だから、この池の底には馬の鞍があって、池の主となっていると信じられており、それ以来、「梶原の池」と呼ばれるようになった。現在池辺の熊野神社の東にある池がそれで、弁天さまがまつられている。

※ 写真は家の庭のパイナップルフラワーのついていた3mmにも満たない小さな「はえ」超マクロ撮影でした。一瞬ハエの仕草が「手を摺る、足を摺る」というように感じました。







2020/07/09 10:54:53|その他
川越出身の歌人「杉浦翠子」
 杉浦 翠子(すぎうら すいこ)、明治18年〜昭和35年にかけての歌人。旧姓は岩崎翠。日本のグラフィックデザインの礎を築き多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の初代学長となった杉浦非水の妻でもある。洋画家岩崎勝平は甥。
 杉浦翠子は川越市に、父・岩崎紀一、母・サダの六人兄弟の三女として生まれた。旧姓は岩崎翠(いわさきみどり)。次兄の福沢桃介は福沢諭吉の娘婿となった大実業家。
 翠子が2歳のときに父、3歳で母と、それぞれ死別し、祖母に育てられる。  祖母が死去すると次姉・てるの嫁ぎ先である東京赤坂の出渕豊保に身を寄せ、国語伝習所、女子美術学校(現女子美術大学)を卒業する。出渕豊保宅の隣に豊保の友人の杉浦非水が居を構えていた。非水は翠子の若い美貌と詩才に激しく惹かれ、明治37年に二人は大恋愛の末、結婚する。翠子19歳、非水28歳であった。
 「日本の電力王」と呼ばれた兄・桃介に代表される拝金主義に激しく翠子は反発、デザインの世界に進む夫・非水の精神性に夢中になる。翠子は北原白秋に入門、大正5年にはアララギに入会、さらに斎藤茂吉に師事する。新進デザイナーと新鋭歌人という経済的に恵まれた夫婦は「モボ・モガ」としてマスコミで持て囃され時代の寵児となった。翠子は情熱的な作品を発表し続けた。
 激情的な翠子はアララギの編集兼発行人・島木赤彦らに疎まれ、翠子は大正12年にアララギを退会、社会性・批判精神を欠如したアララギの短歌を批判した。昭和8年、歌誌「短歌至上主義」を創刊(装幀は非水)、主宰者として主知的短歌を唱える歌風に転じた。代表作は、歌集に「寒紅集」「藤浪」「生命の波動」「みどりの眉」など。小説では「かなしき歌人の群」など。
昭和35年)2月16日、自宅で病没。最愛の夫・非水に5年先立つ死であった。港区白金にある時宗の寺・冬嶺山松秀寺に夫とともに眠る
 







2020/07/08 14:08:36|その他
雨・コロナウィルス・水曜日(観光業休み日) 街は閑散でした
午前11時30分頃の市内の状況、雨は傘をささないですむ程度でしたが、街はひっそりとして、人の姿はほとんど見られませんでした。







2020/07/07 11:01:00|その他
川越の歴史(仙波氏)
 川越の歴史を語るうえで、河越氏、太田氏(道真・道灌)など有名な方の名が出てきますが、河越氏と一緒に源頼朝にしたがって戦った「仙波七郎・次郎二郎という勇者の存在も歴史の中で認識すべきでありましょう。
ここに、仙波氏について検証してみたいと思います。
 仙波氏は平安時代末期に、武蔵国入間郡仙波(川越市仙波)を拠点とし、地頭として南部一帯(現ふじみ野、富士見市、三芳町周辺まで)を所領した村山党の支族であります。
 村山党は平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつで、平頼任が多摩群に興した一族で、入間郡一体で勢力を伸ばしました。 そのうちの一人である家継の子家信(仙波七郎)を祖とするのが仙波氏で、家信は12世紀半ばに現在の新河岸川西側の高台に館(平山城)を構えたといわれています。その東の一角には長徳寺があり、仙波氏の持仏堂から派生した寺院で冷水山清浄土院と号する喜多院の末寺で、川越市指定史跡で仙波氏館跡とされています。 仙波氏は、その南部一帯(ふじみ野、富士見、三芳ほか)に広域な荘園を構え、家信は仙波七郎と称した。保元の乱では、村山党の武将は、源義朝に従い武勲を示した。
 承久の乱(1221年に日本で起こった朝廷と武家政権による初めての内乱)では川越北西部の上戸を地盤とする河越氏に従い、宇治川の合戦では京方を破るも、仙波氏は家行、信恒など多くの戦死者を出した。 その後、安家の直系では仙波盛直が北条時輔の「二月騒動」(北条氏の家督争い騒ぎ)の内乱に連座して誅殺される。
  応安元年(1368年)の武蔵国・相模国・伊豆国を中心とした国人一揆である平一揆のうち、河越氏当主の河越直重を中心とした武蔵の国の国人が、関東管領上杉憲顕に対して起こした反乱一揆(武蔵平一揆)では、他の村山党諸氏と同じく河越氏に従って挙兵するも敗北、仙波氏も衰退する
 その後は仙波二郎のように室町幕府に仕え、享徳の乱以降は扇谷上杉氏に従うが河越夜戦で上杉氏が衰退すると後北条氏の家臣となる。仙波久種は鶴岡八幡宮造営奉行に任命され、その子・仙波次種は北条氏政に仕えた。以降、相模国や伊豆国に知行を得、江戸時代の旗本の仙波氏の家系が生まれた。

※ 写真は新河岸川の中の落ち葉「小さな秋」