≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/07/06 20:20:01|その他
太田道灌お手植えの矢竹(川越氷川神社)
 河越城の築城にあたって、太田道真・道灌父子は氷川神社を城の守護神として崇敬したという。
 特に道灌は「老いらくの身をつつみてこそ武蔵野の草にいつまで残る白雪」と献詠し、矢竹(笹の一種)をお手植えしたとのことです。

 ※   写真は氷川神社境内の「矢竹」です。
 







2020/07/05 11:56:44|その他
天狗党の乱とは(概要)
 天狗党の乱概要 
天狗党の乱とは、一口で言えば元治元年(1864)三月、水戸藩の尊攘派天狗党が起こした争乱である。その呼称は、水戸藩の保守派が学問を鼻にかける改革派をあざけって「天狗」と呼んだことにはじまる。天狗党に属する人々は、みずからを正義派とし、むしろ誇りをもって天狗党を名乗ったという。しかし一方、近在の農民たちは、しばしば軍用金を巻きあげられて困窮していたから、その子どもたちは、天狗といえば純然たる集団強盗のこととばかり思いこんでいたそうだ(山川菊栄著『幕末の水戸藩』)。
 天狗党の面々は、藩主徳川斉昭の藩政改革を機に登場した軽格武士を中核とする急進派で、保守派の諸生党と対立した。天狗党は攘夷延期を不満として筑波山に挙兵し、心事を一橋慶喜に訴えるという目的で大挙上洛の途につく予定だった。
 最初、筑波山に集まった人数は百数十名にすぎなかったが、その後、一時、太平山に移り、さらに再び筑波山にもどるなどしているうちに千人余にふくれ上がった。幕府の命令を受けた近隣の結城(ゆうき)、土浦等の諸藩が天狗党を攻撃したものの、反対に攻め破られている。しかし、幕府の若年寄・田沼意尊が常野追討軍総括として、大軍を率いて筑波山を囲むに至って天狗党も山を下り、以後は同藩の反対派である諸生党との抗争がしばらくつづく。 筑波の天狗党と天狗党の主将・武田耕雲斎の率いる軍勢およそ四千は御殿山を攻めて諸生党を追い払った。しかし幕府軍の攻撃を受けて降服するものが相次いだ。党員のうち、江橋五右衛門以下230人罪人として川越藩に預けられた。
 
※ 写真は自宅に咲いたアガパンサス
 







2020/07/04 15:15:04|その他
水戸藩十九烈士埋葬の地 (市指定・史跡)
水戸藩十九烈士埋葬の地 (市指定・史跡)  
 明治維新に先きだつ元治元年(1864)水戸藩内「天狗党」は尊王攘夷を強行しようとして、筑波山に決起したが、幕府はこれに対して激しい攻撃の軍を進めた。天狗党の一部は茨城県那珂湊の部田野原の戦いに敗れて降伏し、隊員のうち江橋五右衛門以下230人は罪人として川越藩に預けられた。 江橋五右衛門は翌慶応元年(1865)4月2日死罪打首の刑に処せられた。その内18人の武士は抑留中それぞれ病に倒れ,併せて19人の遺骸はいずれも喜多町の広済寺に埋葬された。川越藩主は慰霊のため永代供養料15両と水府浪士19柱の位牌を当寺に奉納したという。

※ 写真は我が家のパイナップルフラワー







2020/07/03 11:15:23|その他
甲州武田の姫が開いた寺
至誠山成就院真行寺の開祖について
川越は寺の多い町であるが女性が開いた寺は珍しい。
真宗大谷派、至誠山成就院真行寺、開祖は真行尼である。真行尼は、武田信虎の子八重姫といわれ、天文元年(1532)生まれとなっているが、信虎に八重姫という姫がいたかは定かでない。彼女は武田家と本願寺の姻戚を頼り、大阪石山本願寺に至り、本願寺派第11世顕如上人に、本願地方の法を聴聞し、真行尼の法名を賜ったという。天文23年(1553)には、岩崎兵庫、若山主計ら家臣とともに甲斐を出て、武州吉田村へ一時落ち着つき、その後は川島郷の虫塚に移り住み、そして、川越(現宮元町)に後の至誠山成就院真行寺となる庵を開く。その時真行尼は41歳である。天正10年(1582)には武田勝頼の次男靖清が真行寺に来る。その12年後の文禄3年(1594)10月18日真行尼は没している。二世は靖清が継ぎ、法名を善西と称し、元和9年に没している。寺の本来の在り様は、村の中心的なやくわりを負っていたので、各檀家は、寺の周囲に住んだものだが、この至誠山成就院真行寺の檀家の在り様は不思議で、各檀家は川島町の虫塚や伊草、旧芳野村の北田島、旧古谷村の古谷上、上福岡と川越の中心街外側に広がっていて、町の中には数は少ない。そして、その檀家は、その村の寺とも付き合いをしているという。こんなところから、真行寺が甲斐武田の流れを汲む直系で、武田の家臣が川越を中心に街道沿いに落居したといわれ、そのシンボルとして真行尼がいたのかもしれないという。
  ※ 我が家の菩提寺はこの真行寺である。
  ※ 写真は花簪のような藤の花 







2020/07/02 10:52:01|その他
川越城の七不思議「初雁の杉」
川越城の七不思議 (初雁の杉)
 川越城内にある三芳野神社の裏には大きな杉の老木があった。しかし、枯れてしまったので伐り倒され、それが、つい最近まで神社のわきに置いてあった。
 この辺は三芳野の里といわれ、伊勢物語に詠(うた)われている次の歌のように、むかしから有名な歌枕だった。
 
   三芳野の田面(たのむ)の雁はひたぶるに
       君が方にぞよると鳴くなる
   わが方によるとなくなる三芳野の
       田面の雁をいつかわすれむ

 
 この歌に詠われる雁と、三芳野神社の杉について次のような言い伝えがある。
 いつの頃からか、三芳野の田面(たのむ)の里に、毎年北のほうから初雁が、少しも時を違えず飛んできた。そして、いつも杉の真上まで来るとガアガアと三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。この故事によって、川越城は一名初雁城ともいわれている。
 また、太田道灌がこの杉のこずえに旗を立てたということから、旗立の杉ともいっている。 (川越史料調査研究会口碑伝説より)
 
※  写真は、だるまの写真をパソコンで加工したアート「赤の画像」