≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/07/16 11:43:30|その他
2020/コロナウィルス時代の街散歩







2020/07/15 12:01:01|その他
川越の街
7月11日(土)12日(日)は川越にも多くの人出がありました。昨日の14日(火)は写真の通り、人出が見られませんでした。
川越はバスで訪れる観光客が来ていませんので、比較的安心して街を歩けます。
※ ただし、平日の午後ぐらいにかぎりますが・・・

 







2020/07/14 19:40:29|その他
繁華街の終焉(うらさみしい風景)
かつての繁華街も時の流れに押し流されて終焉を迎えた。歳をとってこのような姿を見るとさびしい気がする。







2020/07/13 9:31:56|その他
「ごぜ橋」のいわれ(盲目の瞽女さんが架けた橋)
川越の人物誌女性偏に「小谷野ひめ」という人の偉業が掲載されている。
 
この方は三味線を弾き、唄をうたいながら門付けをする盲目の人(瞽女)のひとりと言われています。この方の名前が出てくるのは、安比奈新田と柏原を流れる戸加川に架設された石橋に「享保3年・武州柏原小谷野ひめ建」と刻まれていたことに由来します。雪深い東北などから、数人でこの地にやってきたのであろうといわれています。瞽女さんはたいてい4〜5人でやってくるが「ある時入間川沿いの道を歩いていて安比奈の水久保あたりの細い木橋を渡りかけ、誤って落ちて亡くなったという。これを哀れんだ村人は、残された瞽女さんの暮らしを支え、瞽女さんは門付けをしながら、橋架け替えの資金を蓄え、かくして村人と瞽女さんの間に橋という共通の目標が生まれ、石の橋を架け、それ以後、この橋を「ごぜ橋」というようになったということです。
川越を彩る女性群像の中で、異郷のこの地で献身と博愛の架け橋を見ることができることは素晴らしい功績であると思います。270余年も昔のことであるという。
今ここは昭和35年にコンクリートの橋に架け替えられていますが、付近の人たちはいまもなお「ごぜ橋」と呼んでいるということです。
 この伝説は柏原では聞かれないということで、安比奈に住んでいて、後に柏原に移ったのではないかともいわれています。







2020/07/12 10:45:49|その他
川越大火の概要(毎日新聞記事)
苦闘する県民/町の四割を焼いた川越の大火中心街をひとなめ
(毎日新聞社浦和支局)
 冬のなごりをとどめた西北の風が激しく吹き抜ける明治二十六年(1893年)三月十七日夜。午後八時十五分、一瞬、風がとまったかにみえたとき、けたたましく半鐘がなった。「南町の養寿院の門前が火事だぞ!」「風が強い。気をつけろ」人々の騒ぐ間をぬって、町の消防夫は総出で走った。しかし、連日の晴天つづきで、各家の屋根板はカラカラ。風に乗って、火の勢いは落葉を焼くように広がった。南町養寿院門前の北横町、皆川某方から出た火は、本町、多賀町をなめ尽くして下松江町、連雀町へ。さらに志義町、鉄砲町、猪鼻町など計十七町を全焼、小仙波村や喜多町にまで飛び火した。
 アッという間に、火は土蔵と土蔵の間をぬって燃え広がった。焼け落ちた戸数は実に1302戸。同年一月の調査で川越町の戸数は3315戸だったから、四割近くが焼失したわけだ。
 しかも、そのほとんどが町の中心部。寺三つと銀行、電話局も焼けた。焼死者や負傷者は幸いになかったが、火の回りが早かったため、家財道具を持ち出す暇さえなかった。一晩で全財産を失った人々は道路にうずくまった。被災者は学校や寺院など十一ヵ所に設けられた救助所に集まり、救助米を受け取って飢えをしのいだ。
 川越の大火はこれが始めてではない。明治二十一年三月二十二日にも、高沢町で百二十戸がやけた。この日午後三時二十分ごろ、同町の糸商丸松¥シ井治兵衛方から出た火は、南東の風にあおられて東西に飛び火。三時間も燃え続けてようやく鎮火した。町の消防力といっても手押しポンプがせいぜい。ちょっとした火事でも手を焼いた。この二つの大火で川越町民は火事に対して深い反省を呼びさまされた。当時の川越は有名な商業の中心地。裏に土蔵を三つも四つも構えているところは多かったが、表通りの店はかわらぶきか、杉皮ぶきの板屋根が普通だったから燃えるのも早かった。 
ところがこの大火でもびくともしない建物があった。土蔵を店舗にして、重い棟瓦をのせ、厚い壁で塗りあげたいわゆる蔵造りの店である。江戸時代天保の飢饉≠フ時、失業対策事業としてつくられたこの店蔵は、壁の厚さ二十センチ、土戸の厚さ六センチという頑丈なものだった。
 今日川越にある蔵造りの店は、ほとんどが大火後三年ほどの間に建てられたものだ。
 大火の二日後、林県知事が視察、百円を救助費の中へ寄付、県の役人もそれぞれ月給の二十分の一を贈ることにした。東京では県出身の実業家渋沢栄一、代議士高田早苗らが義援金を募集、現金五千六百九円十六銭四厘のほか、米、しょうゆなどが集まった。 という記事を見つけました。私も川越生まれで川越の大火の話は聞いていましたが、ここまで詳しくは知りませんでした。

写真は川越氷川神社の祭典行列 以前のものです。今年は開催はないでしょう。