≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/06/20 11:19:39|その他
河童のお伊勢まいり
河童の伊勢まいり
昔のお話です。「名細の小畔川の小次郎と川島伊草の袈裟坊と坂戸小沼のかじ坊」という三匹のいたずら好きの河童が、仲良く伊勢参りに出かけました。羽振りのいい旅人に成りすました三匹の河童は、宿場宿場で大盤振る舞いをしたり、茶店では一番上等のものを食べたり買ったり、あまりも金使いが荒いので、店の主人たちが、三人の旅人には気負付けろと連絡しあい、お金を調べましたところ、なんとそれは田螺の蓋だったのです。インチキがばれてしまうと大変です。皆から追いかけられてとっつかまってしまいました。そして河童であることがばれてしまい。さんざんしぼられました。それからは三匹の河童はすっかりおとなしくなり、二度と再び旅には出なくなったという民話です(川越の民話より)







2020/06/19 11:31:00|その他
次兵衛塚の伝説(川越)
神の申し子を育てた次兵衛
 むかし、砂新田に次兵衛という者が住んでいた。たいへん働き者で、朝は暗いうちから畑仕事に出かけ、夕方は星を見なければ帰らないという毎日で、近所の評判もよく、何不自由なく暮らしていた。
 彼には子宝に恵まれないという満されないものがあった。たまたま、ある人から、「上州の榛名神社(群馬県の中部)へお願いすれが、子供を授けてくれる。ただし、その子は神の申し子だから、年限がくれば神となって親の許から去ってしまうが、それでもよかったら、ひとつお願いしてみたらどうか」と教えられた。彼はなかばあきらめていたところなので、たいへん喜び、仕事を放り出してとるものもとりあえず、榛名神社を尋ね、 三日三晩、子供が授かるように一心不乱に祈った。しばらくすると、霊験があらわれ、女の子が生まれた。毎日毎日、蝶よ花よと大事に育てた。娘は親の期待にこたえてすくすくと育ち、娘が七歳になったときのことである。朝ふと娘の草履を見ると、濡れているではないか。ところが、次の朝もまたぬれていた。いよいよ彼は不思議に思って、娘に聞いてみた。はじめはだまっていて何も答えなかったが、そのうちに観念したように話し出した。
実は私は榛名さまから来た神の申し子です。ことしは七歳になりましたので、約束どおり、榛名神社へ帰らなければならないのです。いままでこんなにまで私を愛し、大事にお育て下さったご両親さまにお別れするのがつらくて、とても言い出すことができなかったのです。毎晩お休みになるのを待って、榛名山へ忍んで行っていたのです
 彼は飛び上がらんばかりに驚き、 「いやいや、お前は私たちの娘だ。だれが何といったって渡さない。断じて渡さない」と言って娘を抱きしめ、ややあってから、落ち着きをとり戻した彼は、(そうだ。榛名さまへ願をかければ子供は授かるが、その子は神の子だから、年限があると教えてくれたのは、このことなのか。やはりこの子は神の子だったのか) と、改めて神のお力の偉大さに胸をうたれた。
 とにかくもう一度お願いして自分の子供にしてもらおうと、榛名神社へ行ってみた。 神殿の前で娘とともに一心に神のお慈悲を乞うた。ところが、何と娘といっしょに連れて来た下女は、何かにとりつかれたように、物も言わずにかたわらの榛名湖のほうへ歩き出し、あれよあれよと言っているあいだに、「ざぶん!」と池の中へ飛び込んでしまった。彼は気も狂わんばかりに、何かわめきながら湖のほうへ走った。すると娘は、たちまち大蛇となって現われた。下女は蟹(かに)となっていた。 すっかり力を落してしまった彼は、何も手につかず、終日部屋に引きこもって考え込んでいた。ついに娘のいなくなったこの世に用はなくなったと、入定する決心をした。
 地面に穴を掘って中へ入り、いっさいの食物や水を絶って念仏を唱えた。心配してようすを見に行った人の話では、満面に笑みさえ浮かべて一心に経文を唱える姿は、すでに人間ではなく、仏さまだったという。
 七日目の晩、とうとう念仏の声が途絶え、成仏していた。村の人々は生前彼に言われたとおり、そこに塚を築いた。これが現在砂新田の高階中学校の西側にある「次兵衛塚」である。
 榛名湖がきれいな水を一年中たたえているのは、蟹になった下女が毎日掃除しているからだという。
 参考=「川越地方郷土研究資料」

 







2020/06/17 20:27:30|その他
雨の川越の街
雨がよく似合う古き城下町川越の夜







2020/06/16 10:26:02|その他
「カタツムリの寄生虫」 今日もまた「カタツムリの話です」
童謡『かたつむり』では、子どもがかたつむりに刺激を与える様子が出てきていますが、実はかたつむりを触るのは少々危険なのです。その理由は、かたつむりに寄生虫が棲息しているケースがあるからです。 危険な寄生虫がかたつむりに潜んでいると、触れただけで死にいたるようなこともゼロとは言いきれないのです。しっかり手を洗えば大丈夫という呼びかけもありますが、むやみやたらに触らないことが最大の安全策となりますので、とくに小さなお子さんがいる家庭では、かたつむりに興味本位で触らないようしっかり伝えておきましょう。
 
――カタツムリの目は切られても再生する
 カタツムリの目は触覚の先についていて、切られても再生しますこれだけでびっくりですが、もっとあぜんとする話をしましょう。
 じつは、オカモノアラガイというカタツムリの触覚には、ロイコクロリディウムという寄生虫がすんでいることがあります。
これに寄生されると触覚はふくらみ、緑・黄・赤の3色しまもようをつくり、「ノタクタト」うごめくのです。
 寄生虫の目的は、カタツムリの触覚をイモムシのように見せかけること。すると、鳥がまんまとかんちがいして、寄生虫もろとも触覚を食べてくれます。やがて鳥はそれを消化して、寄生虫入りのうんこをします。そのうんこをカタツムリが食べ、寄生虫は新たなカタツムリの体内にすみつくというわけ。この奇妙なサイクルは、地球のかたすみで永遠にくり返されています
この寄生虫に感染すると、鳥から身を隠すどころか、自ら鳥の目立つところに出るというからさらに驚きです。
この現象をユーチューブで」見ました。驚いています。
 
 







2020/06/15 10:22:02|その他
「でんでんむし」のかなしみ  
今回は新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」についてご紹介します。
この作品に注目が集まったのは1998年。皇后美智子さまがインドのニューデリーで行われた国際児童図書評議会の基調講演でこの「でんでんむしのかなしみ」について触れたのです。
【基調講演抜粋 橋をかける子供時代の思い出】
まだ小さな子供であった時に、一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことがありました。不確かな記憶ですので、今、恐らくはそのお話の元はこれではないかと思われる、新美南吉の「でんでん虫のかなしみ」にそってお話いたします。
そのでんでん虫は、ある日突然、自分の背中の殻に、悲しみが一杯つまっていることに気付き、友達を訪ね、もう生きていけないのではないか、と自分の背負っている不幸を話します。友達のでんでん虫は、それはあなただけではない、私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまっている、と答えます。小さなでんでん虫は、別の友達、又別の友達と訪ねて行き、同じことを話すのですが、どの友達からも返ってくる答えは同じでした。そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気付きます。自分だけではないのだ。私は、私の悲しみをこらえていかなければならない。
この話は、このでんでん虫がもう嘆くのをやめたところで終わっています。

あの頃、私は幾つくらいだったのでしょう。母や、母の父である祖父、叔父や叔母たちが本を読んだりお話をしてくれたのは、私が小学校の二年くらいまででしたから、四歳から七歳くらまでの間であったと思います。その頃、私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめた、と知った時、簡単に「ああよかった」と思いました。それだけのことで、特にこの事につき、じっと思いをめぐらせたということでもなかったのです。
しかし、この話は、その後何度となく、思いがけない時に私の記憶に蘇って来ました。殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気付き、もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは、楽なことではないのだという、何とはない不安を感じることもありました。それでも、私はこの話が決して嫌いではありませんでした。

初の民間出身の皇太子妃、そして皇后となった美智子様。
大変な重圧を背負いながら皇室と国民への献身を続けてこられた美智子様を支えたものの一つに、この「でんでん虫のかなしみ」があったのです。