≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

私は小江戸川越市街地の北のはずれで生まれ, 以来ず〜とそこに住んでいる超高齢者です。
 
2020/06/26 13:58:51|その他
七夕のいわれ
七夕といえば、牽牛と織姫の一年に一度の逢瀬の話です。鵲(かささぎ)の翼を連ねた橋を渡って二星が逢うという伝承は古来中国の伝説に由来します。中国の歳時記では「乞巧奠」(きっこうでん)といい、機織りや裁縫の上達を願う行事があったと記されているようです。
「乞巧」とは「技が巧みになることを乞う」という意であり、「奠」は神仏に物を供えて祭るという意であるといわれています。
ところで、なぜ「七夕」というのでしょう。調べてみました。日本では昔から「衣」は魂を包むもの考えられてきました。そこで、お盆に先立って、祖霊をお迎えするために「棚機津女(たなばたつめ)」と呼ばれる乙女が、人里離れた水辺の機小屋(はたこや)で、一夜を過ごし、穢れを水に流して祓う行事が行われていたといいます。この祓えを「棚機」といいましたが、七日の夕刻に行われることから「七夕」というように、変わったのではないかといわれています。いずれにしても、行事は祈りです、人々が生きていくために、大いなる物をお供えし、健康と豊作を祈ろうではありませんか。
 
  うれしさや七夕竹の中を行く  正岡子規
  七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ  橋本多香子

   ※ 写真は 我が家の「ねじばな」3兄弟







2020/06/25 10:49:26|その他
木野目長者の知恵 伝説
 「木野目長者」のうまい知恵
 川越に、木野目という所がある。低平な水田地帯の中の、水田村だ。江戸時代の中頃のこと、ここに「木の目の長者」と敬われていた長者がいた。あるとき、ひどい飢饉になって、村から餓死者が続出しそうになった。たくさんのお金を持っていた長者は腹をきめた。 「よし、村中の者に、米が買えるだけの銭をくれてやろう」 長者は村の中のある場所に、荒地のドロを持ってこさせた。2人1組で、モッコで運ぶのだ。長者は現場に大きな銭箱を据え、1モッコで1回、銭の掴み取りをさせた。
 (中略)
 村の者は、毎日、朝から晩まで競争でドロを運んだ。それでやがて大きな山が2つもできた。信心深い長者は、その1つに愛宕様を、もう1つに浅間様を祀った。 これが田んぼの中の愛宕塚と浅間塚だ。むかしの木野目は、洪水の多い水場でもあった。それでここは、そうした時の安全な避難所にもなっていた。
 (川越の伝説より)

写真は「水滴」のアートです。昨日家で撮影してみました。
 







2020/06/24 15:53:15|その他
さくらんぼ
友人が土産に持参してくれました。今年の初物です。







2020/06/24 11:48:45|その他
笑いと風刺の民話
「無筆の願書」
 昔ある村に飢饉があって大変に困った。代官様に願い書を出すことになったが、誰も字が書けぬ。中で一人が、わしに考えがあるからといって引受けた。代官所では、願い書を受取って開いてみると、 一二三四五六七八九十 とあって、終りに三と書いてある。何のことか判じようがないので、書いた百姓を呼出してたずねると、「一つ一つ申し上げます。二は苦々しく、三年この方、非常(しじょう)な飢饉で、五穀も、ろくろく稔らず、質に置くやら、恥をかくやら、食わずに苦しむ、十ケ村の難儀」とよんだ。代官は「それで判ったが、終わりの三は何か」というと、百姓は、「願い人横川三蔵」と答えた。
 最初にだれが考えだした話かわからないが、これを伝えた農民たちは無筆なおろか者どころではなかった。「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」と治められ、「百姓は筆を持つより、くわを持て」といわれた世の中で、皮肉たっぷりに自分たちの知恵を語ったのである。
『川越地方昔話集』に載っている笑いと諷刺の民話

写真は、昨日自宅で撮影した「あじさい」です。
 
 







2020/06/23 12:01:12|その他
幽霊と碁を打った和尚(川越の伝説)
 幽霊と碁を打った唯一和尚
 川越の通町に昔、孝顕寺という禅宗の寺があったが、城主松平大和守家のお供寺とて所変えの時に殿様に従って前橋に移転した。
 ここの住職であった唯一和尚は、学徳兼備の人で、また大層と囲碁が好きであった。その碁相手は川越藩士の田村栄次であり、田村は剣を能くし、大川平兵衛門人中の逸足と呼ばれ、神道無念流の達人で、その将来が嘱望されていた。この田村がふとかりそめの風邪から病が重なってしまい、医師にも絶望視されて、最早その命は旦夕に迫ったと伝聞された。かつて剣に長じた若者とて、藩士達にも再起不能の重病が案ぜられていた。
 田村は病臥中にいつも「今一度丈夫になって孝顕寺の唯一和尚と碁試合がしたい」と口ぐせに言っていた。ある日、この孝顕寺に藩士の舟戸某が和尚の許を尋ねると、お小僧が出て来て、和尚は今、書院で田村と碁を打っていると聞かされ、舟戸はびっくりした。田村なら今は、今日明日という臨終間近の容態との噂を知っているだけに驚いた。
 寺の小僧の話には、いつものごとく紋服姿で、玄関から田村さんは書院に入り、和尚の碁相手になっていると話されて、これは不思議と思って、舟戸は直ちに、田村の屋敷のある城代家老の吉田筑後邸内に訪ずれるとまたびっくりした。田村の屋敷では、今病人が息を引き取ったと涙ながらの話で、家人が枕辺に看とっていた。
 この話が城下町に広がり、或は田村と町中で出会った人もあるなどと当時噂とりどりであった。唯一和尚は、田村の霊魂が幽界人となって、いとま乞いに来て、最後にいつものごとく一石打ったのであると、禅僧だけに騒ぎもせず、静かに落着いていた。
 唯一和尚は、尾州の生まれで、志士とも交わりが深く、勤王の志が厚かったと称されていた。学僧とて能書家であり、詩文も上手であった。文久元年五月に没しているが、その墓塔は喜多町の広済寺にある。これは所替えで、同宗の広済寺に墓塔が残されたものであろう。(川越の伝説より)