カツマタクラス

 
2020/03/31 17:55:15|その他
今度こそ終わり
もうやめようと思って、それでも声をかけられて続けてしまったこのブログ。このあたりが店じまいかと思っている。そこで、(私にとっては)大胆な発言をしたい。
最近の二つの裁判のことである。一つは、小学生の娘を虐待死させてしまった父親の裁判であり、もう一つは、20人近い身体障碍者を殺害してしまった人の裁判である。
どちらも、何か違うぞ、という気がした。被告に対してではない。裁判官に対してである。なぜ大胆かというと、裁判記録を読んだわけでもないし、どんなことをしたのかということを詳細に確認したわけでもないからだ。完全な勘違いかもしれない、しかし、どちらの裁判官も独善に帰して、一方的に断罪したように見えた。
どちらの被告も、自分や自分の人生が許せなかったのではないか。情けない自分を許せるのなら、「娘」を死に至るまで追い詰めたりしなかったのではないか。「自分より劣る(と思う)存在」を消し去ろうなどと思わなかったはずだ。消したい自分がいるから、その力が他者の否定につながっている気がする。
それは、前回の話とつながっている。ナイフが内に向かうことと、外に向かうことに、それほどの差はないのだろう。
だとすれば、裁く人がするべきことは、被告と徹底的に対話することだったのではないか。新聞を読む限り、どちらの裁判でも、被告が自分自身と向き合える言葉をかけている気がしない。「あなたは、現在の自分をどう思っているのですか?」「価値のない人間、あるいは、十分な結果を出せない、情けない人間と思っていませんか?」
「娘さんにどうなってほしかったのですか?そして、それはなぜですか?」「先が見えない、あるいは先を見ない人は許せませんか?そして、それはなぜですか?」
世界一の娘であってほしかったから、どうしても先の見通せない人としか見えなかったから、そう思うのは、とりもなおさず情けない自分が許せなかったから。新課程の道徳の授業が始まり、それに関わって2年。つくづくそう考えさせられている。
被告に死刑を宣告したその後で、被告に発言を許さなかったその姿に、裁くのは俺だという慢心があり、そこに被告と同じ姿勢を見たと感じたのは、私だけだろうか。分かってもらえていない、あるいは分かってもらえなくていいと思ったままの人間の罪を「裁いて」も、被害者を含めた魂の救済にならないのではないか。魂の救済ができなければ、「真の意味での罰」を受けさせることができないのではないか。
(多分、どちらの裁判も審議しつくされ、上記のような質問もしつくされたのでしょう。新聞の片隅を少しだけ読んだ私が言うべき言葉ではないのでしょう、きっと。)

嫌な文章で最後を締めることになってしまいました。