チューケン行政人通信

地方公務員の知られざる日常と本音! そして「男女共同参画」を自分の言葉で語ります。 ※このブログの筆者はある地方公共団体の職員ですが、感想、意見にあたる部分はすべて筆者個人のものであり、所属団体としての見解を示すものではありません。
 
学童保育という「宗教」
役員になれない人は、やめるしかないの?
学童保育という「宗教」


 はじめに確認しておく。学童保育室の役員になることは、職務命令ではない。「なる」か「ならない」かは、自分の私生活のあり方の一部として、自分が決めてよいことだ。「今の生活ではとてもキツイ、無理だ」と自分が思ったら、もうそれは「なれない」「ならなくてよい」ということである。「あなたの生活状況ならできるはず」などと、他人から強制される筋合いのものではない。

私たちのホンネ
 私たち夫婦は、2人とも職場が地元とはいえフルタイム勤務。今年3月まで在室した小4生の下に保育園児を1人かかえるという子育ての絶頂期に、妻が念願の大学院に合格し、仕事に加えて研究に明け暮れる毎日である。おまけに私が図書館勤めのため、毎週、土・日曜のどちらかに必ず出勤する。家事をまとめて片付けたい週末に、育児の手が半減する。図書館が休みの月曜日は、私が家事に専念できるものの、思ったほど進捗しなかったときの妻の落胆が大きい。残った家事が、一週間にわたって精神的ストレスを与えるからだ。家事・育児の現場を共有できる共働き・共育てのメリットが機能しない。これが結構辛い。
 そんな私たちが学童保育に望んだことは、とにかく「子どもを預かってほしい」だけだった。子どもを預けることで安心して働ける、休暇を取ればその分家事が進む、研究ができる、その一心だった。
 だが、それは許されなかった。学童保育は、利用者主導で創設された経緯があるせいか、行政が長年民間の活力に甘え続け、今でもその運営は保護者組織に負うところが大きい。つまり、公共のサービスとして成熟していない。具体的には、保護者会への強制加入、キャンプなどのイベントを担当する各委員会への全員割り当て参加、学童保育の「民の運営部分」を担う「学保の会」への協力などが、保護者の負担としてのしかかる。
「学童保育の活動に参加すれば、運営の問題が他人事ではなくなる」「勉強になるよ」と言われても、正直なところ、学童保育の運営については、私たちは市に「お任せ」でかまわなかった。勉強は、他のところでしたかった。子どもを預けることによって、逆にそうした負担が増えることに、どうしても納得がいかなかった。

半官半民を支える「宗教」
 一般に共働きと言っても、多くの場合母親の方がパート労働で、預ける側のはずの保護者たちが、預けられる側の運営に関与する余力を残している。こうした現状が、半官半民の学童保育を成立させている。多くの保護者がこのバランスを受け入れた結果、学童保育には「子どもを預けるだけでなく、保護者の責任を果たせ」「運営に加わることで親も一緒に育つのだ」という「教義」ができてしまった。あたかも宗教のように。そういえば、子どもと指導員とが「ただいま」「お帰りなさい」と挨拶するようにしているのも、なんだか宗教っぽくて違和感があった。子どもたちにも内心の自由がある。学童保育を「第二の家」だと思いたくない子どもだっているはずだ。
 保護者会では、事あるごとに「みんな同じ」、「どこも大変」、「誰もが『自分がいちばん忙しい』と思うもの」、「忙しいのはどの家も同じ。負担も平等に」などと「教義を説く」人がいた。でも私は、いつも心の中で「絶対に違う!みんなの忙しさが、客観的に見て同じなわけがない!」と叫んでいた。私たち夫婦には、「責任」を果たし、学童を「親育ち」の場にする余力が無いと感じていた。第一、共働きで忙しい親が、片働きの親もやらない活動を余計にやるなんて、絶対にオカシイ!
 私たちの「子どもを預けて思いっきり働きたい、学業に打ち込みたい」という願いは、学童保育という「宗教」の教義に反していた。いや、そもそも親としてこの考え方はダメなのか。否定されるべきなのか。もし私たちの生き方を認めるのであれば、学童保育をすべての働く親たちに開かれたものにしてほしい。子どもを預けたいが、忙しくて運営活動に参加できないため、入室をあきらめている人たちも少なくないのではないか。行政は、子育て支援の責任を果たしていないのではないか。

開かれた学童保育に
 もっと保育料を払ってもいいから、学童保育を100%公営にして、保護者の強制的な運営負担を無くし、どんなに忙しい人でも子どもを預けられるようにしてほしい。
 すべての人に開かれた、理想の学童保育の様子はこうだ。預ける親たちは、一人一人働き方が違う。忙しさが違う。そのことをお互いに認めている。忙しさの違いを認めることは、関わり方の違いを認めることにつながる。忙しい人は、保育料さえ払えば何もしなくてもよいことにする。そのかわり、所得や保育時間に応じて、今以上に保育料に差を設けてもよい。これで、忙しくて「子どもを預けるだけで精一杯」の人も、「責任を果たしていない」とは言われない。誰もが肩身の狭い思いをせず、堂々と子どもを預けられる。
 保護者会の出席も、役員になることも、イベントへの参加もすべて、責任ではなく、任意に、自発的にやっていると位置付ける。そういうことは、やれる人がやる。「やれる」と思う人が誰もいなけれれば、潔くやめる。それでも「子どもたちを日常的に預かる」という、学童保育の最低限の役割は果たせるのだから。イベントや研修活動、運営への参加は、もちろん保護者たちにとって貴重な研鑽の場となり、その連帯は、地域の教育力の向上に役立つ。やれる人はどんどんやるべきだ。でも、それに参加できないことに引け目を感じて、入室を断念する事態が起きているとすれば、本末転倒である。そもそも「何のために学童保育があったのか」を考えれば、この半官半民の現状をどうすべきか、自ずと答えが見えてこないか。

加入も強制、運営も強制
 同じ問題を抱える団体が2つある。「自治会」と「PTA」だ。いずれも、事実上加入を強制されるうえ、地域ごと、学校ごとの独占団体であって、他の加入先を選べない。様々な生活状況の人たちが加入するわけだから、構成員に必須の負担は、団体本来の活動を維持するための、必要最小限のものにとどめるべきであり、それ以外の付加的な活動は、「できる」と思う人だけが、ボランティアの気持ちで参加すればよいはずだ。また、加入が強制である以上、その運営は、各構成員の事情や意思を反映し、民主的に行なわれなければならない。宗教団体のように「はじめに運営方針ありき」で、それに賛同する者だけが集まっているわけではないのだから。したがってこうした団体は本来、地域、学校によって、運営のあり方に個性が出るはずである。ところが、現実は違う。
 自治会、PTA、学童保育。いずれの団体も、その運営やルールについて、構成員の意見を取り上げ、議論する態勢にない。なぜそうなるのか。三者とも、近隣のそれ同士で「連合会」を構成しており、さらにそれらを統括する上部組織が何層かにわたって存在する。PTAと学童は全国組織まであり、自治会は、市町村が元締めのようになってしまっている。上部組織は、共通のルールや人的協力の要請により、各団体の運営を拘束する。連合組織の中では、任意の事業であっても「ウチだけやめるわけにはいかない」という、横並び意識が働く。各団体、各構成員によって事情は違うのに、「自治」が許されていないのが実情だ。

違う+平等=無理
 自治会では、1年交替の当番制により、「班長」への就任を余儀なくされる。班長たちは、月1回の会議出席と、市や自治会からの文書の回覧といった本来の業務に加えて、全員が何らかの別の「委員」になることを、当て職的に強制される。役によっては、そこでまた年間十数回の、催し物や会議への参加を要求される。土・日曜に仕事や他の活動をしている人は、当然満足に「義務」を果たすことはできない。「最も忙しい人でも無理なくできる程度に」という発想がない。
 PTAで典型的なのは、「朝の登校指導」である。勤め先が県外なら、とっくに出勤しているであろう朝の時間帯に、通学路の交差点に立って、子どもの横断などを指導する。共働きや、幼児をかかえる親たちが協力することは難しい。任意の活動であるはずなのに、これも全員の当番制になっており、どうしても無理な家庭は「辞退」するだけでは済まず、理由を添えて「免除」を願い出なければならない。他にも、「全員が、6年間で一度は役員になる」という不文律も聞かれる。「やれる人がやる」ではなく「誰でもやれるはず」という空気が流れる。子を持つ親なら誰もが「平等に」負うべき義務というわけか。この国では、忙しい身の上で子育てをすることは、罪なのか。

恐縮か脱退か
 団体のルールによって課せられた義務が果たせず、そのルールを変えることも発議できない構成員は、どうすればよいか。
 自治会の場合、加入は「任意」であるから、脱退してしまうという方法もある。しかし、「そこに住む者は加入すべき」というのが地域の一般的な認識だ。脱退してなお住み続ければ、有形無形の非難を浴びることは察しがつく。PTAに至っては、脱退という逃げ道すら用意されていない。
 学童保育については、子どもを他に預けることができれば、問題は一応解決する。ただそうなると、子どもはいったい誰と遊ぶのか。小学校低学年の長い放課後の時間を、クラスメイトや地域の子どもたちと一緒に過ごさせたいという、親としてのささやかな願いをかなえるためには、「義務を果たせない保護者」という後ろめたさを感じながら、在籍し続けるしかないのだろうか。
 「忙しい人」は、こうした声を上げるヒマもない。だから学童保育の運営は、いつまでも「忙しい人」の気持ちに配慮したものに変革できない。公に開かれているはずの学童保育が、「兼業主婦」という一定の働き方、生き方だけを「教義」とした「宗教団体」になってしまい、教義に沿わない生き方をする親たちを恐縮させたり、排除したりしている。その数は、決して少なくない。
 「子どもを預けているのだから、このくらいは当然」と納得して諸々の活動に参加している親御さんたちは、このことに気づいてほしい。




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コメント発見!遅れてすみません…
 思いさん、ゴメンなさい!
 近年、ブログの管理がすっかりお留守になってしまいまして…
 ほとんど更新していないこのブログですが、11年前に載せたこの記事にだけ、今でもポツポツとコメントが寄せられます。
 思いさんのように、学度保育、児童室のあり方に疑問を抱いている人、困っている人が確実にいるという証です。
 この声を大切に集めましょう。そしてこのブログから発信していきましょう。
 ガクドウが決めた働き方に合わず、困っている人がいることを!
 それに気づかない人、気づこうとしない人たちに向けて…

チューケン行政人  (2017/08/10 23:36:57) [コメント削除]

賛成???♂?
今日、児童室の説明会と父母会の説明がありました。この児童室は今年から開始なのに会長が決まっていて、弁当当番、お茶会当番、BBQ当番、会計当番とか他にも細かくした当番があり、一人一役をやってもらいますと宣言してました。勝手に決めないでください。
親の負担や人間関係が拗れる場合この場合は子にも悪影響などを考慮すればプラスよりマイナスが大きい。親同士の為にやっているのでは。
父母会が無くても子供たちは勝手に子供同士の世界で健全な関係を育み友達になっているでしょう。

思い  (2017/03/11 18:32:11) [コメント削除]

多様化で「宗教」脱出!
 ひろさんもコメントありがとうございます。
 学童保育が、多様な関わり方を許さない「宗教」にならないためには、この仕組みを作る立場にある人たちが、「お父さんは大黒柱、お母さんは補助的にパートで働く」とか「お母さんは、働かずに子どものそばにいるのが本来」などといった、画一的な子育て観、夫婦観から脱出しなければなりません。
 そのために今私は、性別にかかわらずあらゆる働き方、生き方が選べる「男女共同参画社会」を実現するために、落語を通して皆さんと考える講演活動に取り組んでいます。
 よろしかったら「千金亭値千金」でご検索ください。

チューケン行政人  (2015/08/27 23:04:21) [コメント削除]

激しく同意
私もこの宗教に全く馴染めず、役員として意見しても取り上げてももらえず悶々とした毎日です。途中で退所すら出来ないシステムなので、今年一年耐えるしかありません。同じように考えている人がいてホッとしました。
ひろ  (2015/08/27 22:15:27) [コメント削除]

コメントありがとうございます。
 ずいぶん前の記事にコメントありがとうございます。
 時は流れて、小4の子は高校を卒業し、保育園児は中学に上がりました。
 でも私は、このことを今も世の親御さんたち、教育・保育関係者の皆さんに訴えたい、考えてもらいたいと思っています。
 学童保育の存在は、確かに小学生を持つ親の働き方に、1つの選択肢を与えました。
 しかし選択肢は1つでは足りないのです。
 人の働き方、生き方は、人の数だけあります。
 選択肢を1つしか作らず、みんながそれに合わせなければならない世の中は生きにくい。気持ち悪いのです。

チューケン行政人  (2015/01/29 21:02:37) [コメント削除]

宗教団体?
役員は洗脳された人…見たいで可哀想!
お金(学童費)を支払って(役員)ボランティアをしている。次の日仕事なのに月に1度は20時から夜22時〜23時まで会議!
本当に宗教団体の様な団体(NPO)だ!


役員辞めたい  (2015/01/29 18:00:45) [コメント削除]

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