2008年12月30日、家族が一人増えた。猫である。 生後7か月、メス。
団地生まれ、団地育ちの私は、それまで金魚とザリガニしか飼ったことがなかったので、猫をもらってくることに、あまり気乗りがしなかった。
育てるといえば、人間の子どもなら幼児から一人、乳児から一人、育てたことがあるので、苦労は知っていた。 なぜ自分の子どもでもないのに、猫を育てるという苦労を買わなければならないのか、という感覚である。
妻はかつて実家で、猫を飼っていた。 上の子(中1)は殊の外、猫を欲しがっていた。 下の子(小1)はなぜか猫が好きで、小さいころからよく野良猫を追い回していた。
私一人で、猫の受け入れを反対するほどの理由も思いもなかった。 まあ、飼ってみるか。
猫が来て数日。まだ私たち家族に人見知りしているようなときに、妻と子ども二人が、前々から予定していた2泊3日の沖縄旅行へ。 猫経験の最も少ない私が、いきなり猫と二人きりのお正月。
ちょうどトイレの場所も覚えてくれたところなので、エサと水さえやっていればよい。これは、下の子の育児休業よりもだいぶん楽だ。 とはいえ、初めての猫と3日間1対1。少し緊張した。
猫としても、他の家族が居なくなってはしかたがない。 猫に慣れていない私の前にでも、現れるしかない。
私が夕食に焼きそばを作って食べていたら、寄ってきた。「食べたいのかな?」 今思えば、そんな味の濃い物など、食べたいはずがない。きっとこう言いたかったのだ。「あんなにいた他の家族は、どこに行ったのか?」
妻たち三人は沖縄から帰ってくると、その猫を「チョコ」と呼ぶようになった。 私としてはうっすら「ミースケ」と呼んでいたが、メスだし、茶色いし、妻たちはどうも「チョコ」がしっくりくるようだ。
私一人で、ミースケを推すほどの理由も思いもなかった。 まあ、チョコでいいか。
それからチョコは、どんどん私たちに慣れていった。 次の年賀状には、家族の一員として登場した。
エサを求めるときだけは、顔が違うのがわかった。生活がかかっている感じ。 「一人にさせといて!」の顔もわかってきた。眉をひそめて短く鳴く。
エサをやる人間の手には、感謝の頬ずりを忘れなかった。 食べ終わると、家じゅうをパトロール。 お気に入りの場所は、サンルームの網戸の前と、陽の当たる廊下。
チョコは毎日、いろんな場所で寝た。 上の子のベッド、私たちのベッドや椅子の上。サンルームのテーブルの上、廊下に置いた洗濯かごの中、リビングのソファー、冷蔵庫の上… 夏休みには毎日、下の子の遊び相手になった。
私が家の外で何かしていると、窓越しに見に来る。 家猫なので、なるべく外の空気を吸わせるようにした。 日に一度、野生に還ったように、部屋から部屋へと駆け回った。夜だったな。
チョコが居ることがあたりまえになった。 チョコが元気で居ることがあたりまえだった。 病気もケガもせず、医者に診せたことがなかった。
家族旅行のときは、チョコ一人でお留守番。 「エサが多めになっているときは、要注意なのよ!」
それもかわいそうなので、妻の父に来てもらうことにした。 妻の父いわく、「(エサをくれる恩人なのに、)チョコはつれないそぶりなんだよ。」…定番の笑い話になった。
私たちが帰ってくると、チョコは姿を見せず、どこかで拗ねている。 会ってもしばらくはキョトンとしている。家族の顔を忘れたか?
いつのころからか、毛づくろいをする時間が長くなった。 水皿の水が、早く減るようになった。 また少し太ったな。
体の毛が、目立って抜け始めていた。脚の内側、わきの周り、目の上…皮膚を掻き壊したか、血がにじんでいることも。
毛が抜けるのは、年相応という話を聞いた。8歳になれば、そんなものだと。 しかし上の子に促されて、妻がはじめて動物病院に連れて行った。
はじめてのお薬。 錠剤の小さなかけらを、エサに混ぜてやると、気がつかないかのように、普通に食べた。
チョコが6日分のお薬を飲み終わって、一週間経った。 別段、変わった様子はなかった。
その夜、夜更かしがちな私が床に就こうとしたのは、2時20分ごろだった。 チョコがちょうど私の枕の前に寝ていたので、動かすしかなかった。 「こっちで寝てね。」寝ている妻の横に、ずらした。
私が温かいチョコに触れたのは、それが最後だった。
翌朝、チョコは突然さよならしてしまった。 2016年9月21日、朝5時10分。 上の子が発見した。
椅子の下で、変な姿勢になっていた。 椅子の下は、チョコの寝る場所ではない。
冷たくなりかけていた。
妻と上の子は、泣いた。 私と下の子は、心で泣いた。
チョコは穏やかに生きて、穏やかに死んでしまった。 チョコがいた8年間が、幸せだったと気づいた。 チョコありがとう。
猫がこんなに私たちに思い出をくれるのなら、飼い主がいなくて困っている猫がいたら、また飼おうと思った。
チョコも、そんな一匹だったので。 |