川越城を奪われたことにより、南武蔵が後北条氏のものになったことは、上杉氏としては我慢ならないことで、奪い返す機会をうかがっていた。 天文14年(1545)後北条氏が駿河の今川氏と戦っているのをいいことに、山内・扇谷両上杉は力を合わせて、最後の本拠地である上野から兵を集めて奥州街道を南下し、狭山市柏原、川越市の砂窪(砂久保)に本陣を置き、川越城を囲んだ。 一方これまで上杉氏とは犬猿の仲であった古河公方も、後北条氏の力が増大になるのを恐れて、川越城包囲軍に参加することになった。後北条氏という共通の敵ができたとたん、皮肉にも公方と管領の同盟が結ばれたのだ。 駿河にいた北条氏康は、天文15年わずかの兵を率いて川越城の救援に向かった。この時の合戦も先の川越城攻略の時と同じ夜戦であった。氏康側の軍は川越城包囲軍に比べ、あまりにも小勢であったが、再び夜戦に持ち込んでの見事な奇襲攻撃により、勝利を収めた。 この戦いで扇谷上杉朝定は23歳の若さで他界、長期間にわたり南武蔵を統括してきた扇谷上杉氏は滅亡した。また、扇谷上杉朝定に加勢して管領家の権威を回復しようとした山内上杉憲政は分国上野の平井城に逃れ、さらに、 後北条氏に追われて越後に入り、長尾景虎のもとに身を寄せ、長尾景虎を養子にして関東管領職を譲り、景虎も上杉姓を名乗り「上杉謙信」となり、後北条氏の当面の敵となった。したがって後北条氏は、北に備えることが、いちばん心を用いることとなった。 |