犯罪を行ったものは、犯罪者である。残念なことに、国家を動かしているほとんどの為政者は、犯罪者だと私は思っている。やむにやまれぬ殺人を起こして、それがばれて捕まるというのが大体のミステリードラマであろう。小説でも、どうにもならない状況でどう行動するかが問題で、どうにもならない部分がどれだけどうにもならないかで、名作の度合いが決まる気がする。夏目漱石の「こころ」しかり、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」しかり。島崎藤村の「破戒」だって、告白をしてもしなくても罪なことをしていると言えないだろうか。その点では、折り合いをつけるという「政治」を行っている時点で、超法規の犯罪を行っていることになると思うからだ。ただ、その中でも、人の命を奪う決定をすることだけは、許されざる罪であると思う。問題は、それをもって罰せられるかどうかだ。
もっとも否定されるべきは殺人のはずだ。しかし、殺人が肯定されるのが戦争である。それを起こした為政者は、やはり罪に問われるべきではないか。なぜかというと、中国の歴史で学んだことによる。 法は三章のみという言葉がある。犯すな奪うな殺すな。中国の歴史としてはっきり残っている出来事の、最初の一つからできた言葉だ。漢が秦の首都を占領した際の言葉である。占領した漢軍が、占領者も含めてあらゆる人間に示した法律だという。 平和であることの象徴はこれに尽きるのではないか。これを守ったうえで、話し合い、何らかの決定をしていく。決定ができない以上は現状、あるいは殺しを始めた以前の状態に戻しそれを維持したうえで、殺害犯を処罰する。殺人を無意味なものにする唯一の方法ではないか。問題はそれを為政者にも適用できるかどうかだが。 戦闘・戦争という形でまず手を出した為政者は無条件に処罰される、そんな世界になってほしい。権力をもっている彼らにこそ必要なことではないか。私はそう思っているのだけれど。 |