北武蔵野夜話

 
2018/05/07 21:08:01|・地域の地名のはなし
9.古(いにしえ)の歌に由来す
  霞ヶ関村由来
 「霞ヶ関」という地名が現在の川越市域に登場するのは、明治17年(1884)に地方制度の改革があり、高麗郡の「笠幡村」「安比奈新田」「的場村」「柏原村」の四村を合併して、村名を柏原村の小字の「霞ヶ関」とすることに決まった。ところが、明治22年(1889)全国に実施された町村制の施行に当って、旧柏原村が霞ヶ関村から離脱してしまったが、村名は「霞ヶ関」村を残し続けた。

 現在の狭山市柏原の智光山公園の南の狭山工業団地南側に「奥州道」と言う交差点があり、その南のバス停に「霞ヶ関」という名が残されている。
 現在の日高市女影から狭山市入間川に抜けた昔の越後国・信濃国からの鎌倉街道の一つで、今も信濃街道と呼んでいる。ここに霞ヶ関と呼ばれる所があり、その南にある坂を信濃坂と言い、坂の上にその昔に関所があったと言われている。

『新編武蔵風土記稿』には高麗郡の「仏子(ぶっし)村」の中に、「霞ヶ関 村の東北柏原村の界にあり,旧蹟なることは柏原村の條に載す」とあり、「柏原村は郡の東南入間の郡界にあり、霞郷に属す」と記している。
 高麗郡には当時「高麗郷」と「上総郷」があったことは平安時代の「和名抄」に記されているが、その後「霞郷」という郷名も成立したのか、単なる通称なのかもしれないが、「霞郷」に「霞ヶ関」という旧蹟があったという。
「往古越後・信濃より鎌倉への往還にて、今は信濃街道と唱ふ、こゝに霞ヶ関と称する名所あり、その南の小坂を信濃坂と唱ふ、坂上に古へ関のありけるよし、其処も今は定かならず、古人の和歌二首、土人口碑に伝えふるもの左にのす、
 「春たつや霞か関をけさ越えて、さても出けん武蔵野のはら」
 「徒つらに名をのみとめてあつづま路の、霞の関も春そくれゆく」

 昭和30年(1955)に川越市に合併した「霞ヶ関村」の東武東上線霞ヶ関駅は、大正5年(1916)に開業したときは「的場駅」であった。後の昭和5年(1930)「霞ヶ関駅」に改称され、的場駅の名前は昭和15年(1940)に開業した川越線の駅名に引き継がれた。
 なお、霞ヶ関駅に本当の話か、作り話かは今となっては確かめようもないが、面白い話が近隣に伝えられている。
“ある日、霞ヶ関駅の改札を出た降車客が周囲をキョロキョロ見回した後で、改札口にいた駅員に、「あのう国会議事堂はどっちへ行ったらいいんだべ」って聞いたと。東京の霞ヶ関と間違えて、どこか遠い田舎の駅から、この駅までの切符を買って乗ってきたんだと”

  名細(なぐわし)村由来
 昭和30年(1955)に川越市に合併した「名細村」は近隣の者は方言で「ながァし」と呼んでいたが、その命名理由は知られていない。明治22年に江戸時代からの鯨井、上戸、平塚、平塚新田、下小阪、小堤、下広谷、吉田、天沼新田の九カ村が合併して旧村は大字としたが、新村名に悩んだ末に名細村と名付けたという。
 その選定理由が、現在の川越市鯨井の資源化センター横にある巨大な石碑「名細第一土地改良区記念の碑」により、「伊勢物語」などにより名高い三芳野の里に由来し、万葉歌人の柿本人麻呂が詠んだ歌の「名高い」「美しい土地」という枕言葉よりつけられたと知れる。

「伝 承 吾等は遠都祖先よリ此の地を継承し 報恩感謝以て努力し愛護しきたれり これを後世児孫に伝承す 冀くは時世に順応しつつ長久に保持されんことを 万葉集に “名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者(なぐわしき いなみのうみのおきつなみ ちえにかくりぬ やまとしまねは)”
 万葉の歌は、万葉集巻三 柿本人麻呂が筑紫国に下るとき海路にて作る歌二首の内とある。名細き(なくわしき)は美しい、名高いの枕詞。稲見は兵庫県印南郡高砂市から明石市にかけての平野の呼び名 」
「名細の村名の由来 新名ヲ名細ト名付ハ、該村タルヤ数ケ村ノ合併ニシテ 何レモ小村ニシテ 敢エテ大小ナキニヨリ、大村名ニ採ルカ又ハ参互折衷スル能ハザレバ、歴史上著名ナルカ 又ハ該村々ニ於イテ保存置キタキ名称之アレバ 古老等問イ申ヘキ旨 戸長ニ命ジタルニ、該地方ヲ賞賛シタル古歌ノ枕詞ヲ取リテ 斯クハ名付度旨申シ出タリ 」





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