川越在の昔ばなし

急速な都市化の波に飲み込まれて変貌した、かつての川越御城下の在方の村に伝えられた、主に農民の古代から昭和戦後までの歴史、風習、生活の様子などについてまとめた。 旧村の人たちの間で今も使われている方言と、それによる昔話と小ばなしも翻案して収載した。
 
2014/12/30 18:37:00|★北武蔵野夜話/序文
北武蔵野夜話・目次
            増補更新
  「自給とリサイクル社会 1〜6」 2017.06.01
  「昭和戦中戦後の暮らし 5〜8」 2017.06.07
  「方言だんべえ語辞典 1〜8」   追加中
  「方言民話  25影隠し地蔵」  2017.07.08
  「農民の衣食住と年中行事 11」 2017.07.09

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            目  次
 北武蔵野夜話・はじめに
 一、農民の定着と武士の台頭
  1.原始から古代の人々。2.稲作の始まり。3.古代制度下の農民。4.農法の改良と耕地の開  発。5.武士団の発生。6.地域の主な豪族。7.風雲の上ツ道。8.戦乱の北武蔵。9.河越城の夜戦。10.松山城の攻防。11.戦乱の中の農民と土豪。
 二、江戸期の生活と幕末の騒乱
  1.兵農分離。2.新田開発。3.享保の開発。4.耕作技術の進歩。5.農民の自然との闘い。6.農民は貧民とは限らない。7.昔の旅と道。8.村の防犯体制。9.農民を巻き込む博徒。10.勤王の志士。11.ボッコーシ。12.飯能戦争。
 三、明治大正期の暮らし
  1.埼玉県の成立。2.祖先の伝えた農法と農具の改良。3.続・祖先の伝えた農法と農具の改良。4.娯楽と芸能。5.続・娯楽と芸能。6.地域の仕事歌。7.道路と鉄道。8.呪い・民間療法。9.旧道の残る馬車街道。
 四、農民の衣食住と年中行事
  1.農民の衣。2.農民の食。3.住家の特長と立地。4.住家の間取り。5.茅葺き屋根。6.正月行事。7.年中行事。8.祭礼と災厄除け(呪い)。9.特異な行事。10.特異な宗教観。11.お出かけになる神様。
 五、自給とリサイクル社会
  1.生活必需品とリサイクル。2.続・生活必需品とリサイクル。3.修理再生業者。4.回収業者。5.回収業者2。6.村の職人と商人。
 六、助け合い社会の表と裏
  1.完全防犯社会。2.村の共同労役。3.スケと互いっこ。4.つるつるかめかめ(ごしゅうぎ風景)。5.余暇の遊び。6.息抜も兼ねた信仰。7.純朴な農民の裏の顔。8.いつの世も絶えぬ財産争い。9.町場の商人の裏の顔。
 七、昭和戦中戦後の暮らし
  1.空襲警報。2.戦争末期の学校。3.村の駐屯部隊。4.敗戦の夏/進駐軍。5.町から消えた商売。6.町や村から消えた仕事1。7.町や村から消えた仕事2。8.町や村から消えた仕事3。
 八、戦後の子どもたち
  1.教育の混乱。2.農作業と子どもたち。3.年中行事の楽しみ。4.祭りの楽しみ。5.続・祭りの楽しみ。6.集団の遊び。7.遊び道具作り。8.収穫の遊び。9.戯れ・冷やかし言葉など。10.子どもの歌。11.集団遊び歌。12.手遊び歌。
 九、地名のはなし
  1.地名のいわれ。2.地域の地名のいわれ。3.難読地名。4.方言地名。5.よく似た地名と区別の仕方。6.埼玉県内の地名の由来。7.新田の名に人名。8.地名のあれこれ。
 十、勤労青少年の心の故郷
  1.金の卵と呼ばれた若者たち。2.会館を持つ唯一の青少年団体。3.「人生は出会いだ!」。4.高まった活動とリーダーの奉仕。5.華やかな文化活動。6.国際交流と21世紀の活動。
 十一、方言・だんべえ語辞典(8)
 十二、方言で伝える民話(25)
 十三、村の方言小ばなし(22)







2017/07/18 19:38:00|★枕草子・だんべえ語訳
枕草子・だんべえ語訳 1.
 日本の代表的な古典文学の一である清少納言の徒然草を、だんべえ語訳にしてみました。
 意味不明の部分は古文・原文およびだんべえ語辞典でご判読ください。
                         訳・植木 清光
[だんべえ語訳]
 春はあけぼのだんべ。ようやっと白っぽくなって、山の上の空がちっとんべえ明るくなって、紫っぽい雲が細くなびいてる。
 夏は夜だいね。月のある夜は当たりめえだけんど、月のねえ夜だってホータロがいっぺえ飛んでんなァいいもんだ。それに、一つか二つポッポって光って飛んでくンもいい。雨なんか降ンのもいいな。
 秋は夕暮れ。夕日が差して山の端っこにお天道様が近づく頃に、カラスが寝床にけえるべェつって、三つ四つ二つって飛んでくんもいい。まして、雁なんかが繋がって、いらちっちゃく目えるんもいい。日が暮れてっからの風の音、虫の声なんかも、はァ言うまでもねえもんだ。
 冬は朝。雪が降ってるときゃあ言うまでもねえ。霜が真っ白に下りてんのも、またそうァなくっても、とてもさぶくって、火なんか急いで熾して、炭ィ持ってくんも、冬の朝らしかんべ。昼ンなって温ったかくなっと、火鉢の火も白っぽくなっちまって、こらァ良くねえ。

[古文・原文]
 春は曙。やうやう白くなりゆく、山際すこし明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
 夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
 秋は夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。
 冬はつとめて。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃・火桶の火も白き灰がちになりて、わろし。

   ーつづくー







11.お出かけになる神様
 日本古来の神道信仰は御本社より分祀された御祭神を村内に建立した神社にお祀りしているか、全国各地の大社の講中を組織して代参者がお参りして頂いてきたお札を各戸に配ってお祀りするものであった。
 ところが筆者の育った村(現在の大字)では、子どもの頃に、「ひらかたのおしっさまが来ている」と、何度も聞かされたことがあった。村の中で昔、名主を務めた大きな農家に行ってみると、大きな獅子頭が祀られていた。
 それは昭和の後期まで続いていたが、坂戸鶴ヶ島市街化区画整理によって旧村区域が消滅し、御獅子様のお迎えもなくなってしまったが、同時に住民の心も変貌してしまったように感じられてならないのである。

 これは上尾市大字平方の里、神祝地区に鎮座する八枝(やえだ)神社のお獅子様で、悪疫退散に霊験あらたかな守護神として、江戸時代後期より御神体の御獅子を迎えて祭る広い信仰を集めてきたと伝えられているという。
 一般には「平方の御獅子様」として親しまれ、明治20年頃には地元の平方地区をはじめ、足立、比企、入間、南埼玉の県内各郡、現東京都の北部、旧多摩地方にまで信仰が広まり、各地への渡御(御獅子の巡回)が行われ、一時は講員数三万余人に達したと言われている。大社でもない地方の神社が、これほど広範囲に氏子集団を持っていた例は全国的にも珍しいとされている。
 江戸時代の八枝神社は京都の八坂神社の御祭神と同じ牛頭天王をお祀りした天王社だったが、明治初めに八坂神社の枝社として八枝神社と改称したという。祭神は素盞雄尊と狛狗大神である。
 また、毎年七月の夏祭り(祇園祭)には、通常の神輿と白木作りの隠居神輿の2基の渡御があり、隠居神輿をお神酒所や民家の庭先で水を掛け、地面に転げ回し泥だらけになる勇壮さから「どろいんきょ」の名が生じたという。
 江戸時代の平方は川越城下町と中山道の上尾宿との間の荒川を渡る河岸場として栄えた所で、その影響があったともいわれている。







2017/07/08 14:47:01|・方言で伝える民話
25.影隠し地蔵
                              翻案・左向家白生 
 上広瀬っつう所に、おおしゅうどうっつわれている昔からのけえどうがあって、その道ばたにゃァ影隠し地蔵っつう古いお地蔵さまがポツンと里を見守っててな。
 昔々、源氏と平家がさかんに戦ァしていた頃のことだ。木曽義仲の長男の清水冠者義高は鎌倉の源頼朝の人質になっていた。ところが木曽義仲は、鎌倉幕府ゥ開いた頼朝の命令を受けた源義経の手で滅ぼされちまった。
 義仲ァ滅ぼした頼朝は、こんだァ人質の義高を殺すことにしたんだと。それェ知った義高は、義理のおっかさんの北条政子の計らいで、夜ンなってから女の子の格好して鎌倉ァ逃げ出したと。
 義高は必死に駆けて、府中から所沢ァ通って、やっと入間川ァ越えたところで、ひと安心だって思って後ろォ振り向いたら鎌倉からの追手が馬ァ飛ばして、ぐんぐん近づいてきた。
 さあ、泡ァ食って逃げる義高。どんどん追っ駆けてくる荒武者。義高は必死に走って、奥州道ンとこまで辿り着いたけど、いくら走っても馬にゃァかなァねえ。
 とっ捕まるなァ真違ェねえとこで、義高は道ばたのお地蔵さまァめっけたんだと。
「お地蔵さま、どうぞ助けてください」
 つって、お地蔵さまの後ろに姿を隠したところ、不思議なことにあれほど近づいていた追手も義高を見失ってしまったんだと。清水冠者義高は、このお地蔵さまの慈悲によって危ねえところを救われたと。
★標準語訳 上広瀬(狭山市)っつう(という)おおしゅうどうっつわれ(奥州道と言われ)けえどう(街道)にゃァ(には)こんだァ(今度は)それェ(それを)義理のおっかさん(義母)馬にゃァかなァねえ(馬にはかなわない)とっ捕まるなァ真違ェねえとこ(掴まるのは間違いないところ)めっけた(見つけた)つって(と言って)
★解説 柏原と上広瀬(狭山市)の境にある工業団地の外れに奥州道という交差点がある。西北方から南下する道は上州から来て菅谷、笛吹峠(嵐山町)、苦林(毛呂山町)、町屋(鶴ヶ島市)、女影(日高市)、上広瀬、入間川(狭山市)小手指(所沢市)を抜けて行く鎌倉街道上ツ道なので、それと東北方から交差するのが奥州道で奥州道の辻と言ったのであろうか。

 これとは別の史実だとされる話によって、入間川に架かる本富士見橋脇には、この地で討たれてしまったとされる冠者清水義高をまつった「清水八幡宮」という社がある。
義高の父の木曾義仲の父は帯刀先生源義賢で、鎌倉街道上ツ道の通っていた大蔵(嵐山町)に館を構えていた。義賢は義仲(駒王丸)が2歳の時に、大蔵合戦と呼ばれた騒動の時、義賢の甥の悪源太義平に討たれてしまった。
 駒王丸は母の小枝御前と共に畠山重能、斉藤実盛らの温情により助けられ信州の木曾に逃れたが、重能も実盛も、その後は義仲とは敵対関係となるのは皮肉な運命といえよう。義仲は木曾で宮ノ越に館をもつ中原兼遠に預けられ平家討伐の挙兵まで木曾の地を拠点とした。
 大蔵の西隣の鎌形(嵐山町)の鎌形八幡神社にある木曽義仲産湯の清水は、義賢がこの地にもうけた下屋敷と伝わる。社殿前の階段を下りた所にあり、今も御手洗槽の竹筒から清らかな水が零れ、竹筒の根元の石垣の上には「木曽義仲産湯の清水」の石碑がある。







2017/05/21 15:48:00|・昭和戦中戦後の暮らし
8.町や村から消えた仕事3
  鉄道などの仕事
「切符売り場と改札の切符切り」
 乗車券は硬い紙の切符を出札係の窓口で1時間に1、2本の電車が来る時間になって売り出した。ホームに入ってくる10分くらい前に改札係が来たところで切符に独特のハサミで切り込みを入れてもらってホームに出た。
「単線のタブレット交換」
 衝突防止のため列車がホームに停まると、運転手からタブレットと言う皮ポケットの付いた鉄輪を駅員が受け取り、反対側から来たのと交換しないと発車できなかった。ホームには腕木式信号機も連動する線路切替の手動転轍機があった。
「手小荷物取扱い」
 当時は手小荷物は乗車切符があれば安く送れる鉄道手小荷物(チッキ)の受付窓口が各駅にあった。そのため各駅停車の1輌編成の木造手小荷物専用電車とか、通常列車に郵便と手小荷物の専用車輌が連結されていた。
「貨物列車」
 国鉄、東武、西武など各線に蒸気機関車に牽かれる貨物列車が走っていたが、その列車の最後尾に必ず車掌車が連結されていた。各駅に着くとその駅停まりの車両を切り離して、待避線に入れて荷物を人力で積み替えたりしてた。
 その車両の切り離しと繋ぎの作業には、外側の最後尾に片手で掴まった駅員が、赤い手旗を振りながら誘導した。
「バスの女車掌」
 鉄道の不便な地域の足として路線が多くあった交通機関は乗り合いバスだった。若い女性の車掌さんが、客から行き先を聞いて路線図のついた細長い切符に鋏で穴を開けて渡し、降車時に回収した。
 電車の車掌も駅の間隔のある区間では、発車後に客室に来て切符を持たずに乗った客にバスのような切符を切った。その切符は降車した駅出口の改札係が回収した。
「電話交換手」
 鉄道ではないが、電話をする時は、電話局に掛けて交換手に相手の電話番号を言って手動で線を繋いで貰った。

    これも仕事
「物乞い(乞食)と偽傷痍軍人」
 現在は全く見かけなくなったが、戦後まで農家の門口にも、町の商店の軒先にもボロの衣服を着て黙って立ち尽くす人がいた。決して何かくれとはいわなかったが、気味悪さや商売の邪魔になるために一握りの米や小銭を与えた。
 人の多く集まる町の大きな寺や電車の中で、白衣を着た二人組みがアコーディオンでシベリア抑留者の「異国の丘」を弾きながら募金箱を差し出した。白衣は傷痍軍人の白木綿の着物(和服)で軍帽、軍靴を履いて松葉杖を突いたり、腕を肩から吊り眼帯を掛けたりしていた。だが、本物の傷痍軍人は保証を受けているので、これは偽物だということだった。
「ニコヨン」
 昭和24年東京都の失業対策事業として日雇い労働者に、日給240円を百円玉2個と十円玉4個で払ったのでニコヨンと呼んだ。後に値上げされてから呼び方は変わったが毎朝、駅近くの公園に迎えの車を待つ人が大勢集まっていた。
「犬殺し」
 「犬ころしが来たぞゥ」という声に、犬を飼っていた家では慌てて呼び寄せて綱に繋いだ。町や村の職員か業者なのか2人位で針金の輪を手にして回って来た。当時流行した狂犬病予防のために大事な仕事だったらしいが嫌われていた。
「くず鉄とモク(タバコ吸殻)拾い」
 屑鉄買いが回ってくるのが増えたのは、朝鮮動乱の特需で金属価格が高騰した頃だった。東京に行くとドブ川を浚って金屑を集める人がいたが、大正の大震災や昭和の大空襲の時に落ち込んだ貴金属等が見つかったそうだ。
 また、戦後は煙草は高かったのと販売量も少なくて貴重品だった。巻煙草はゴールデンバットという安物として嫌われた物だったから、袋入りの物を煙管に詰めて吸ったり、巻煙草用の紙と巻き機を買って自分で巻いて吸ったりしていた。
 その頃、先端に針を付けた棒で道路に捨てられた吸殻を刺して拾い歩く人がいた。集めた吸殻はほぐして巻き直して露天で一本から売っていたそうだ。







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