川越在の昔ばなし

北武蔵野夜話、だんべえ語辞典、方言民話、方言翻案小噺、エッセー、コラム、自作の人形、など。
 
2014/12/30 18:37:00|★北武蔵野夜話/序文
「北武蔵野夜話」とは
 本編の舞台は「武蔵野は月の入るべき山もなく、草より出でて草に入る」と、唱えられたる一部であり、その昔は見渡す限りの地の果てまでの平坦な草原であったというが、日照りによる旱魃を除けば、噴火も山崩れも洪水被害もない。我が国の中でも、自然的には誠に平穏な土地である。先人たちが動物的本能でこの地域に住み着き、子々孫々まで住み続けたのは賢明な選択であったといえよう。
 因みに武蔵野とは、関東平野西部の荒川と多摩川に挟まれた関東ローム層の面積約七百平方米の台地で、現在の東京都区部の西北部から、立川市、福生市、青梅市東南部などの一部、埼玉県の入間郡や新羅郡を含む地域をいう。
 荒川の南であっても越辺川の北側は比企丘陵が秩父山地から迫り出しているため、本編での北武蔵野とは、先稿で川越在と称した旧川越城下町の在方の村の内、現在の坂戸市、鶴ヶ島市、川越市にかけてをいうが、一般的には北武蔵野の呼び方はない。
 従って本稿では武士と商人および職人の町人よりも、農民及び村住で農業兼業の職人から見た歴史と民俗についてまとめたものである。

 編纂に当たり北武蔵野の地に古より土着し、広大な原野を開拓して村を開いた祖先が子孫に残した口伝を元に、数多の文献を参考とし編者なりの考察を加えたものである。
 それは、古代から中世の鎌倉時代、戦国時代、江戸時代、更に明治から昭和へと、激動の歴史を生き抜いた「農民の側から見た記録」である。言い替えれば、祖先から残された口伝を検証し子孫に書き残すための調査から始まったものである。
 編者の祖先は、「古代以来の土着者にて、室町時代の応仁元年(1467)に発生し,文明九年(1477)までの約十年間に亘って京(京都)を中心に戦われた応仁の乱で何れか方に参戦したが、落武者として郷里へ帰農したと伝へる。松山城家臣にて秩父郡御堂村(東秩父村)浄蓮寺過去帳に残る」と、記録にあると伝わる。
 江戸時代には日高市から鶴ヶ島市、坂戸市、東松山市を通っていた日光街道を、「殿様の行列が行き来する時に駆り出され、刀を差して村外れから村外れまでお供に行った」と伝えられ、二振りの道中差しが家宝として残されている。
         
      (写真は武蔵野特有の屋敷林を背にした養蚕仕様の茅葺の農家。昭和39年頃) 
 とかく郷土史については、地域に伝わった口伝を無視して、一般的な(全国的な)説を用いて、祖先が伝えた生活や文化までもが歪められている場合も感じられるのである。
 かつて、埼玉の郷土史研究家S・O氏も「私は郷土史は、郷土の人でなければ書けないと思っている。地元の人なら地名や人名を聞けば微妙な点まで直感的にわかるからである」と、書かれている。

 近年は行政等による文書さえ、標準的学説によって説明を行っているものが多いようであり、住居表示実施の場合なども旧来の地名を画一的なものに変えたり、頭に東西南北をつけて来訪者を混乱させたりする例が多いが、地名はその土地に住み着いた祖先の姿や生活の表れなのである。
 これらの地名は、主に戦国時代に荒廃した田畑や原野を開拓し村を開き、営々と守ってきた祖先たちの名字や土地の特徴、謂れなどから名付けられたのであり、それが現在の市町の繁栄の礎となっていることを忘れてはならないであろう。
 尚、本編の後半の主な部分は、既に公開中の「川越在の昔ばなし」を増補改編して、これに当てる。また、地名は当時のままを用いたが、カッコ内に現在の市町村名を記した。

(本編が「川越在の昔ばなし」で表示できなくなった場合は、「北武蔵野夜話」で検索願います)







2017/03/19 19:22:02|・村の年中行事
村の年中行事D
   特異な宗教観

 古来、日本人の多くは、「自分は無宗教だ」と言うが、それは他の国の人々には理解できないことらしい。確かに神主、僧侶、牧師などでない限り、特定の教団に属さず、お経や聖書などの経典に従って生活してもいない。新年を迎えた正月や、特に困りごとが起きてからの願い事でもない限り、著名な寺社を参拝することもない。
 宗教学者によると、「多くの日本人は宗教に救済を期待していないのじゃないか」とあるが、そうであろうか?。確かに普通の日本人は信仰がなくても生活するのに何の支障もない。大きな災害にあっても他国の人たちのように、教会があふれるほどに集まって祈りをささげることもない。
仏教には「業(ごう)」といって、「現世の苦難は前世の自分が犯した罪の償いである」とする教えがあるが、それは僧侶たちの修行の中にあって、一般民衆には理解されていない。神道も神が人に苦難を与える原理を、一般民衆に伝えてはいない。宗教は苦難の解明よりも、苦難からの救済に力を注いでいるらしく、ローマ法王さえも、「答えはないのかも知れません」と語ったという。

 ところが旧来の風景の残る地方の生活圏の周囲には、雑木林の入り口に小さな鳥居があったり、田畑の間の道端には地蔵菩薩や馬頭観世音などの石碑がひっそりと建っている。
 それらは社名の額や社殿までも朽ちかけていたり、石も劣化して表情や文字も判然としないが、誰が供えたか赤い帽子やよだれ掛け、野の花が手向けられている。それらの前を通りすがりに足を止めては、被り物を取り手を合わせる姿が今でも見うけられる。
 東京のような大都会でさえも、繁華街の裏通りに稲荷大明神などの幟旗と小さな社を見かけることがある。これは古くからの住民たちがそれらの社を祀り、代々にわたって護り続けてきたに相違ないであろう。

 そして現代の日本人も、老いも若きも正月には有名社寺に初参りに出かけるし、お盆や祖先の命日には菩提寺に墓参りに行き、子どもの七五三や成人式の後にも近くの神社にお参りする。どこかの神社や寺で祭りや縁日があると聞けば、そこの氏子でもないのに飛び入りで神輿を担いでしまったりもする。
 年末になれば、クリスチャンでもないのに「クリスマスツリーだ。ケーキだ。パーティだ」と大騒ぎをする。その宗教・宗派に属しているか否かは問題ではなく、楽しければよいとして受け入れてしまうのである。
 また明治維新以来の国難に殉じた志士や兵士たちは菩提寺の墓に納められて回忌ごとに供養される一方、東京の靖国神社や各地の護国神社に神として祀られている。
 こうした傍目から見れば節度のないほどの宗教観は、他国の人には奇異なものとして理解されるのは難しいらしい。

 日本人の宗教観は、仏教、キリスト教、回教などと違って、偉大な宗教家の教えが広まったものではなく、人々の中から自然発生的に起こったので異質なものとなったのであろう。
 それは古来の日本人は山や海の荒れることによって、多くの災害を受けてきたためか、山自体を神として崇めたり、海や川の水を水神様として祀ったのである。







火事の坊や
                              翻案・左向家白生
 寒い時分にゃあ、乾きまくってるから火事ンなったらてえへんだよなあ。この節はデイドコで薪ィ燃やしたり、外で焚き火なんぞしねえけど、ガスや石油ゥ使ったりタバコの吸い殻なんぞもきょうつけねえといけねえよなあ。
 むかしゃァ、江戸の町ィ残らず焼いたなんてぇ事もあったんだそうでな。こらあ、よわったてえんで、お上が火消しってえのを作ったり、夜番が「火の用心さっしゃりやしょう」なんてまあるようになったんで、火事がすけなくなってきたんでな。
 そんで暇になってきたってえんで、火事の夫婦が相談したんだと
「この節は、火消しが行き届いてきやがって、いまいましいったらありゃあしねぇ。俺たちゃ商売上がったりじゃねぇか。燃え上がる事が出来やしねぇ。おらあ、明日あたり 田舎の方へ行って、燃え上がってやんべえって思ってんだ」
「ああ、お前さん、それがいい。行って来なよ」
 するってえと、そばで寝てェた子供が起き上がって・・・・・・。
「ちゃん。ボヤ(坊や)もいっしょに行く」
 なんてんで、でっけえ火事からちっちぇえ火事まで、田舎のほうに来ちゃったんだと。そんでこんだあ、田舎の方でもお上が火消しィ作るようになったんで、火事の夫婦やボヤがめえよりもおとなしくなってきたんだと。
★標準語訳 寒い時分にゃあ(寒い頃には)てえへん(大変)この節(この頃)デイドコ(台所)薪ィ(薪を)きょうつけねえといけねえ(気をつけないといけない)むかしゃァ(昔は)町ィ(町を)こらあ、よわったてえんで(これは、困ったというので)お上(役人)火消しってえ(消防という)夜番(夜回り)さっしゃりやしょう(しましょう)まある(回る)すけなく(少なく)そんで(それで)おらあ(俺は)やんべえ(やろう)なんてんで(なんてことで)でっけえ(おっきな)ちっちぇえ(ちいちゃな)そんでこんだあ(それで今度は)めえより(前より)
★解 説 まだまだ日本には木造の家が多いし、冬場の乾燥した時期にゃ火事に気をつけないといけませんね。そんなことがわかってないのか、相変わらずくわえタバコで歩いてたり、吸い殻を道端や他人の家の庭に投げ捨てていく不心得者も後を絶ちませんね。その上、最近は異常に増えてる空き家に、住所不定者や若い者達が入り込んで悪戯してたりするんで、こんなところはとっくに火事の夫婦やボヤ(坊や)が目をつけてるでしょうから、なんとかしないといけませんね。







2017/01/22 21:29:00|・村の年中行事
村の年中行事C
   特異な行事・フセギ

 日照りが続いたり、逆に大水や津波によって畑や山からの収穫が得られない時に、神に祈ったのであろう。これは脚折(鶴ヶ島市)で巨大な大蛇の作り物を担ぎ回る雨乞いばかりでなく、各地で水の少なくなった沼を掻きまわしたり、蛇体を作って村外れに立てたりして龍神を怒らせて雨を降らしたりしたのであろう。
 また、現在でも田圃や畑の隅に細竹の上部に杉の小枝を結び、その下の割れ目に神札を挟んだのを見かけるが、これは悪霊や田畑の病虫害が村に入るのを防ぐためのフセギである。
 寺山(川越市)の八咫(やた)神社では7月14日にマングリと言う神事がある。御幣、竹、麦わらなどで作った梵天を担ぎ回り、村はずれの川の中に立ててから、神社内の石尊様に供えるという悪魔払い行事で、神輿の原型と言われている。
 天沼新田(川越市)では初午の日に稲荷神社で藁で作った奇妙な飾り物を地区外れの辻に立てる。昔、疫病で村中がひどい目にあったため行われるようになったというが、道路が少なく、村から村に出入りするには、必ず同じ場所を通らなければならなかったため、こうした場所で遮れば悪霊や病いが村に入ってこないようにという「フセギ」の行事であるが、見ただけでは何を象っているのか判然としない。(撮影・平成28年(2016)夏)
               
 笠幡(川越市)の芳地戸(ほうじど)でも、毎年春の彼岸の中日に悪魔祓いのフセギ行事が行われているが、享保6年(1721)に疫病が流行したことから始まったといわれ古式をよく伝えているといわれる。
 午前中、尾崎神社で四角の木製の枠に榊や樫の小枝などを取付けた御神輿を作り、太鼓に続いた神輿が地区内全ての家を廻る。昭和40年代初めまでは家の中まで入って清めたが、今は庭まで入り家人にお祓いをし、お札を門口に貼る。2時間半ほどの村回りが終わると、村境9ヶ所に辻札を立てる。
 人の体には、知らぬ間に疫病やら災厄やらが取りついて、少しずつ穢れがたまっていくので、それが害悪をもたらすのだと昔の人は信じていた。
 冷蔵庫などない時代には夏は食べ物はすぐに腐ってしまうし、かつて春から夏にかけて思わぬ伝染病が広がって苦しめられため、伝染病などの悪病が流行しないようにと、それらが村内に入って来るのを防ぐため村境(現在は地区境)にお札や藁で作った龍などの作りものを立てるフセギ(防ぎ?)を行ったのである。

 そのほかにも入間郡、比企郡内ではさまざまなフセギ行事が伝えられているが、石橋(東松山市)では、東西の境に桟俵を象ったもの、サイコロ、神社のお札を笹竹に下げ、都幾川村大附では注連縄、サイコロ、星などを集落境に下げる。
 比企郡の杉山、勝田、吉田(現嵐山町)などの各地区の境でも、笹竹を立てて三つ目の籠、龍、柊、お札を下げる。昔は藁で作った馬のワラジと男根を竹につけて立てたという。
 上尾市川地区の大注連もフセギ行事で、毎年5月15日に長さ5mほどの太縄を旧道の出入り口の高さ4mほどの2本の柱の上に昨年取り付けたものと取り替える。長さ50cm位の縄の小注連を田に向かう6カ所の細道の木の枝などに掛ける。少し離れた幸手市内には藁人形を立てるとか、幸手市、川口市などでは大きな藁蛇を作って地区境に置くが、これもフセギの信仰に基づく行事とされている。







2017/01/18 19:29:00|・村の方言小ばなし
㉑ただの風
                              翻案・左向家白生
 あるとこに、くれるもんならあんでももらァつうケチな男がいてな。道ィ歩いててばったり逢った人に声かけられたんだと。
「おおう、おめぇかい?。くれるもんならあんでももらァってぇやつは……」
「へえ、左様でごぜえます」
「じゃあ、俺はおめえにやりてえもんがあるんだけどな。もらァかい?」
「ええ、初めての方から頂くなあ申し訳ねえけんど、頂けるもんなら、あんでも頂きます」
「そうかい、そらあよかった。実はな、俺ぁさっきっから、腹が張ってしょうがねぇんだ」
「へえ?」
「屁ェ一発こきてえんだが、屁でもおめえがもらってくれっかい?」
「へえ、折角ですから頂きます」
「じゃあ、やるから、後ろへ回んな、いいか?」
 なんてんで、男が後ろへ回るつうと着物の裾を捲って尻ィ出して、でっかいの一発、ブーッてぶっ放した。そうしたら男はその屁ェ両手でパッと掴んだと思うと、バーっと駆け出した。どうするんかと思ったら、自分の畑の真ん中で手をパーッと広げたんだと。
「こんでも、ただの風よりましだんべ」
★標準語訳 くれるもん(他人がくれるもの)あんでも(何でも)もらァつう(貰うと言う)おめぇかい?(お前なのか)やりてえもん(やりたいもの)もらァかい?(貰うかね?)あんでも(何でも)そらあ(それは)しょうがねぇ(仕方がない)屁ェ一発こきてえ(屁をしたい)つうと(と言うと)こんでも(こんでも)ましだんべ(ましだろう)
★解 説 昔は畑の肥料と言えば、稲藁や草を腐らした堆肥か、下肥と言う人や牛馬の糞尿くらいの物だった。江戸時代から干し魚なども使われたというが、高価なため裕福な農民以外は手が出なかった。そこでこんな話も生まれてきたのだろう。
 
★芸名のいわれ★
「サムケヤハックショウなんて風邪ひきそうだなあ。それ、なんかのおまじないかい?」
「いえ、これでも芸名なんで……」
「へえ、これが芸名かい。左向いた家で白が生まれたって、犬っころのことかい?」
「いえそうじゃないんで、百歳まで生きたいというのって、恐れ多いかなって思ったんで、そっから一を引いた九十九までにしようと思ったら白って言う字になったんで」
 仲間たちは変な顔をしていたけれど、永い間わたしの芸名とペンネームとなっています。







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