川越在の昔ばなし

急速な都市化の波に飲み込まれて変貌した、かつての川越御城下の在方の村に伝えられた、主に農民の古代から昭和戦後までの歴史、風習、生活の様子などについてまとめた。 旧村の人たちの間で今も使われている方言と、それによる昔話と小ばなしも翻案して収載した。
 
2017/05/21 15:48:00|・昭和戦中戦後の暮らし
8.町や村から消えた仕事3
   鉄道などの仕事
「切符売り場と改札の切符切り」
 乗車券は硬い紙の切符を出札係の窓口で1時間に1、2本の電車が来る時間になって売り出した。ホームに入ってくる10分くらい前に改札係が来たところで切符に独特のハサミで切り込みを入れてもらってホームに出た。
「単線のタブレット交換」
 衝突防止のため列車がホームに停まると、運転手からタブレットと言う皮ポケットの付いた鉄輪を駅員が受け取り、反対側から来たのと交換しないと発車できなかった。ホームには腕木式信号機も連動する線路切替の手動転轍機があった。
「手小荷物取扱い」
 当時は手小荷物は乗車切符があれば安く送れる鉄道手小荷物(チッキ)の受付窓口が各駅にあった。そのため各駅停車の1輌編成の木造手小荷物専用電車とか、通常列車に郵便と手小荷物の専用車輌が連結されていた。
「貨物列車」
 国鉄、東武、西武など各線に蒸気機関車に牽かれる貨物列車が走っていたが、その列車の最後尾に必ず車掌車が連結されていた。各駅に着くとその駅停まりの車両を切り離して、待避線に入れて荷物を人力で積み替えたりしてた。
 その車両の切り離しと繋ぎの作業には、外側の最後尾に片手で掴まった駅員が、赤い手旗を振りながら誘導した。
「バスの女車掌」
 鉄道の不便な地域の足として路線が多くあった交通機関は乗り合いバスだった。若い女性の車掌さんが、客から行き先を聞いて路線図のついた細長い切符に鋏で穴を開けて渡し、降車時に回収した。
電車の車掌も駅の間隔のある区間では、発車後に客室に来て切符を持たずに乗った客にバスのような切符を切った。その切符は降車した駅出口の改札係が回収した。
「電話交換手」
 鉄道ではないが、電話をする時は、電話局に掛けて交換手に相手の電話番号を言って手動で線を繋いで貰った。

   これも仕事
「物乞い(乞食)と偽傷痍軍人」
 現在は全く見かけなくなったが、戦後まで農家の門口にも、町の商店の軒先にもボロの衣服を着て黙って立ち尽くす人がいた。決して何かくれとはいわなかったが、気味悪さや商売の邪魔になるために一握りの米や小銭を与えた。
 人の多く集まる町の大きな寺や電車の中で、白衣を着た二人組みがアコーディオンでシベリア抑留者の「異国の丘」を弾きながら募金箱を差し出した。白衣は傷痍軍人の白木綿の着物(和服)で軍帽、軍靴を履いて松葉杖を突いたり、腕を肩から吊り眼帯を掛けたりしていた。だが、本物の傷痍軍人は保証を受けているので、これは偽物だということだった。
「ニコヨン」
 昭和24年東京都の失業対策事業として日雇い労働者に、日給240円を百円玉2個と十円玉4個で払ったのでニコヨンと呼んだ。後に値上げされてから呼び方は変わったが毎朝、駅近くの公園に迎えの車を待つ人が大勢集まっていた。
「犬殺し」
 「犬ころしが来たぞゥ」という声に、犬を飼っていた家では慌てて呼び寄せて綱に繋いだ。町や村の職員か業者なのか2人位で針金の輪を手にして回って来た。当時流行した狂犬病予防のために大事な仕事だったらしいが嫌われていた。
「くず鉄とモク(タバコ吸殻)拾い」
 屑鉄買いが回ってくるのが増えたのは、朝鮮動乱の特需で金属価格が高騰した頃だった。東京に行くとドブ川を浚って金屑を集める人がいたが、大正の大震災や昭和の大空襲の時に落ち込んだ貴金属等が見つかったそうだ。
 また先端に針を付けた棒で道路に捨てられた吸殻を刺して拾い歩く人がいた。戦後は煙草は高かったのと販売量も少なくて貴重品だった。巻煙草はゴールデンバットという後に安物として嫌われる物だった。他には袋入りの物を煙管に詰めて吸ったり、巻煙草用の紙と巻き機を買って自分で巻いて吸ったりしていた。集めた吸殻はほぐして巻き直して露天で一本から売っていたそうだ。







2017/05/21 15:36:00|・昭和戦中戦後の暮らし
7.町や村から消えた仕事2
   力仕事
 平成の現代では、製造業の工場から商業、農業に至るまで機械化と自動化が現実に、当たり前の如く通用しているが、そうした流れの中で昭和中期頃までの力仕事を中心に、多くの仕事が消えていった。
「農作業」
 農作業は楽な仕事ではなかったが、先人達は若者から老人まで当たり前に続けていた。鍬をふるって田畑を耕すところから、種蒔き、田植え、除草、施肥、収穫まで、鎌を使っての収穫まですべて体を使っての作業であった。さらに収穫した米の脱穀も足踏み機械だったり、精米さえも餅搗きよりも大きな臼と杵で搗いたりもした。
 昭和の戦後になって人力で押して耕す耕運機が使われてから農民達は次々に稲の苗を植える田植機、乗車して運転する稲刈り機と目を奪われていった。品質のよい茶を作るために事に手摘みしていた茶摘みさえも機械摘みに変わった。
「えんやこら」
 まだ舗装などされていなかった頃の、砂利を敷いただけの道路は月日がたつうちに凸凹になった。補修するには字中の家から1人ずつ共同奉仕に出た人たちが、近くの河原まで行ってシャベルで牛荷車に積み込んだ。地域に着くと主な道路を動きながら少しづつ落として、手作業で道一杯に広げた。

 建物を造る時の作業も人力が主力だった。固い地面を掘るには重いツルハシを振り下ろして崩し、シャベルで掘り上げた土は藁縄で編んだモッコに乗せて棒を通して2人で担いで運んだ。土台下の土固めをするには、土木屋が丸太で櫓を組んで太い丸太を滑車で吊るし、それを引き上げるロープに、その家や近所の手伝いの男女が掴まる。音頭取りが節をつけた掛け声に、引き手が一斉に縄を手繰って引き上げて、パッと緩める。この音頭取りの歌が 「母ちゃんのためならエンヤコーラ。も一つおまけにエーンヤコーラ」である。
「井戸替え」
 水道など大都市以外になかった昭和の戦後まで、水汲みは木の桶を竹で井戸に下げて丸太の重みで跳ね上げる「跳ね釣瓶」や、木製の滑車に掛けた太い縄に付けた木桶で汲む「車井戸」だった。その後にポンプが使われるようになっても、水の出が悪くなるため何年かごとに崩れた井戸の底の土を掻き出す必要があった。
 基礎固めのエンヤコラのように櫓を組んでロープに桶を吊して底掘り役を降ろす。一杯になった合図でロープに掴まった人たちが土と水の入った桶を引き上げる。次々と地区の家の井戸を浚うので、お互いっこと言って手伝い合った。
 石原町(川越市)では昭和の戦後にも、井戸の横にコンクリートの太い管が立ててあって、汲んだ水はそこに流し込んで下から出た水を引用に使っていた。低地だったため濁りがあるから、そこを通して漉してるということだった。
「荷車と荷牛車」、
 農家で収穫した大量の稲などを運ぶのは、大八車と呼ばれた木製の荷車だったが、戦後に鉄製のリヤカーが使われ始めた。大農家は大型の荷車を引かせるために牛を飼っていた。牛は田んぼを耕す代掻きの時に鋤を挽かせたりもした。
 農村から町に米や野菜などの産物を大量に運ぶのも牛の引く大型の荷車だった。大きな店などの一部にオート三輪という車が使われるようになったのは、昭和30年代終わり頃だった。
 重い荷物を積んだ荷車を引く牛も大変だが、その積み込みも目的地に着いての荷下ろしもすべて肩に担いだりして運んだ。遠方の町への荷物は貨物自動車(トラック)でなくて駅から貨車に積まれて送られたし、逆に届いた荷物を降ろすのも人の力だけだった。
 近在の町や村に嫁入りする花嫁行列も2、3里歩いて行くのは当たり前だったし、嫁入荷物も牛の引く荷車で運んだ。
「人力車と輪タク」
 ちょっと大きな町の駅には人力車と輪タクがあった。最近は人力車が川越はじめ各地で観光客向けに復活している。かつては日本髪を結った芸者さん達が乗り易かったのだとか。輪タクは戦後、人力車を改良して自転車で引いた物だった。どちらも体力というか脚力が必要だった。
「赤帽(ポーター)」
 大きな駅で乗客の依頼で改札口からホームの汽車や電車の中まで、或いは逆にホームから改札口まで重いトランク鞄などの荷物を運んだ。最後まで赤帽がいた平成18年の岡山駅での料金は荷物の大小にかかわらず500円だったそうだ。
「千葉の小母さん」
 昭和の戦後に食糧のない東京などの住民は、農村へ食料の買い出しに来た。列車は超満員で窓から乗り降りし屋根やデッキにまで乗客があふれた。買った値段は米1s20〜40円、麦1s15〜25円、サツマイモ1s5円程度だったらしい。また金がないと晴れ着や袴、コートなどを食糧に換えることが多く、これを「タケノコ生活」という言葉が流行した。
 逆に、ようやく生活が少し落ち着いた昭和40年頃には東京の町に、大きな紺の風呂敷包みを背負った小母さん達が多く見かけられた。
 お得意になっている家を訪ねて、風呂敷をほどくと野菜を入れた四角い笊を何段も重なっていたが、かなりの重量だったようだ。東京の奥さん達は「千葉の小母さん」と呼んでいたが、頭は手拭で姐さん被りしてモンペを穿いた姿を、新聞などは「カラス部隊」とか「かつぎ屋」とか言われていた。







2017/05/21 15:14:00|・昭和戦中戦後の暮らし
6.町や村から消えた仕事1
  御用聞きと物売り
 その頃は零細な小売店が商店街以外にも点在していたし、農村部の各地区にも1軒だけの何でも屋が必ずあって、大抵の物はそこで間に合ったし、御用聞きや行商人もいろいろと物を運んできたのだった。
「牛乳配達と新聞配達」
 毎朝薄暗いうちに、ガッシリとした荷物用の自転車の荷台に1合(180㎖)瓶入りの牛乳やヨーグルトなどの入った箱を2つも積んだり、ハンドルの左右にも瓶を入れた袋をぶら下げて配りに来た。外壁に取り付けた木箱に空瓶を入れておくと新しいのを入れておいてくれた。
 同じように暗いうちに新聞配達も自転車で来たが、これはバイクか軽自動車になっただけで今でも変わらない。
「酒屋の御用聞き」
 1日置きとかに注文を聞きに来て、午後から夕方に酒、調味料、缶詰、乾物などを、頑丈な自転車の荷台に載せた籠に積んで配達に来た。自転車とはいえ大瓶ビール24本入り木箱の上に1.8ℓの酒6本入りの箱を乗せて、凸凹の砂利道を2、3q先の飲食店に納めに行くのも当たり前だった。代金はほとんどが現金払いでなく、ツケといって月末にまとめて請求したが、毎月きちんと払う家ばかりではなかった。
「魚屋と豆腐屋」
 魚屋も自転車に木箱を重ねて運んできたが、海なし県だけに生魚はなくて塩魚か干物が多かった。蓋の裏で頭や内臓を取ってくれて、頭や骨は集まってきた猫にあげていた。
 夕方には豆腐屋が、片手でラッパを吹きながら自転車に積んだ水を張った木製の深い箱に豆腐を入れ、上に重ねた箱に油揚げ、がんもどき、オカラなどを売りに来た。豆腐が売れると真鍮板の包丁で細かく切って鍋などに入れてくれた。
「洗濯屋」
 今ではクリーニング屋というし、自分で行って機械に入れる無人のコインランドリーの店も多くなった。当時は「洗濯屋」といって御用聞きに回ってきた。外出用から普段着まで何でも引き受け、自転車に積んだ布のカバーの付いた籠で持って帰って数日後に配達に来た。店に行ってみると衣紋掛け(ハンガー)に掛けた洋服が一杯にぶら下がっていて、横では小父さんがおっきなアイロンを重そうに掛けていた。
「キャンデー屋」
 戦後と言われた昭和20年代には何でも物不足で、特に菓子類なんか何も売ってなかった。その頃、夏になるとアイスキャンデー売りが自転車でチリンチリンとハンドルにぶら下げた鐘を鳴らしながらやってきた。割り箸に丸く凍り付いたキャンデーは、サッカリンとかズルチンとかいう人口甘味だったが、甘みに飢えていたから楽しみだった。
「金魚屋」
 ひと夏に1回金魚売りが「金魚エ〜、きんぎょ!」と呼びながら自転車で水槽を積んだリヤカーで来ることもあった。
「置き薬屋と毒消し売り」
 年に1回来る富山の置き薬屋や新潟の毒消し売りは、隣町の小さな宿屋に荷を鉄道便で送っておいて、そこに長逗留しておっきな風呂敷包みを背負って近くの村々を回って歩いた。その宿屋は昔からの裏街道にあって、江戸時代は旅人や関東八州見回り役人の宿になっていたらしい。
 薬屋の紺の風呂敷の大きさの違う四角い籠にはいろんな薬袋が入っていた。子供には広告の入った四角い紙風船をくれた。お祖母さんが使ってた「按摩膏薬」は、真っ黒なコールタールみたいなのが塗ってあって火に炙って広げたのを背中に貼ってやると熱そうだった。子供の頃は胃が弱くて、時々「熊の胃」を飲まされたけど炭のような物ですごく苦かった。
 新潟の毒消し売りのお姉さんも絣の着物にモンペ姿で、同じような風呂敷包みを背負ってきた。毒消し薬や瓶に入った薄荷のほかに、若布や魚の干物などの海産物から鎌などの農具まで持っていた。そのうちに一年に何回も来るようになったと思ったら、隣町に所帯を持ったということだったが、相手が地元の人かどうかは知らない。
「背負い呉服屋と洋品屋」
 農閑期になって農家回りが専門の川越の呉服屋さんが背負ってきた、大きな風呂敷包みからはいろんな反物が出てきた。縞柄の反物を買った婆ちゃんは、着物に縫い始めた。自転車で来た洋品屋さんからは、シャツやセーターを買ってもらったのを覚えている。







2017/05/20 16:33:00|・昭和戦中戦後の暮らし
5.町から消えた商売
   何でもありの商店街
 昭和末期から平成の時代になると、買い物するのはスーパー、コンビニ、ドラッグストアになってしまったが、戦後の時代はどこの町にも商店街があって、町内ばかりか周辺の農村の必要品から食料まで賄っていた。
 小さな町でも駅前や古くからの街道沿いに小さな個人商店が軒を連ねていて、製造もしてる店では入り口の戸を開け放したままで、親父さん達のやっている仕事が見られた。

 呉服屋、洋品屋、下駄屋、傘屋、荒物屋(雑貨屋)、金物屋、鋳掛屋、ポンプ屋、種屋(苗屋)、肥料屋、文房具屋、桶屋、籠屋、鍛冶屋、薬屋、床屋、酒屋、牛乳屋、蕎麦屋、支那蕎麦屋、大衆食堂、駄菓子屋、アイスキャンデー製造販売屋、煎餅屋、銭湯、花輪屋、内外科医院、目医者、歯医者、産婆などが商店街を形成していた。
 桶屋では檜の板を削って作る大きな風呂桶や、いろんな桶を組み立てていた。鍛冶屋は赤く焼けた鉄を叩くと火花が飛び散るのが見られたし、下駄屋では親父さんが客のお気に入りの鼻緒をその場で取り付けたり、磨り減った高下駄の歯をすげ替えたりするのも見られた。傘屋には竹製で油紙を貼った番傘や蛇の目傘を売っていたし、骨の折れたコウモリ傘(洋傘)の骨を直してくれた。コウモリ傘の骨は修理部品を買ってきて自分で直したりもした。
 井戸にポンプがつくと釣瓶などよりもずっと楽になったが、初めは木製だったから磨り減ったり腐食して使えなくなった。ポンプ屋を呼んで交換して貰うと、井戸に入れるパイプは屋敷内にある孟宗竹を切って節を抜いて取り付けた。
 銭湯は小さな町にも1軒はあったから、風呂のない家はもちろん、風呂桶が壊れた家でも桶屋に注文したのが使えるまでは、銭湯に行けるので便利だった。
 花輪屋というのは紙の造花を大きな輪に飾り付けた物で、葬儀から商店やパチンコ屋の開業などに、道路にずらりと飾られたものだった。いずれの場合も花輪の数と送り主の名札が名の通った社長や政治家だと話題になったものだったが、いつしか見られなくなった。
 商店の開店と言えば、この地域だと松山町(東松山市)にあったチンドン屋を呼んで、賑やかな演奏と開店ビラ配りに町内を回らせたりしたことも見受けられなくなった。
 産婆さんは出産の手伝いをする仕事で、当時はどこの家でも自宅に産婆さんを呼んでいた。家の者も湯を沸かしたりして手伝い、奥の部屋から赤子の泣き声がしてきてほっと一安心という事だった。

 通り沿いには酒蔵の横に寝かしても見上げるほどの桶が干してあったり、蕎麦屋の前にはダシ汁を取った削り節や煮干しが平らなザルに広げて干してあった。町外れの煎餅屋の前には畳1枚ほどの平らな竹の網の上に焼く前の煎餅生地が干してあった。
 農家の庭に蒸かしたサツマイモを薄く切ったのや、渋柿の皮を剥いて藁縄に刺して吊したのがあるのと同じように、自然の汚れていない時代は当たり前のことだった。
 食料品店で佃煮などを買うにも、酒屋で味噌を買うのも量り売りだった。木材を薄く削った経木に乗せて三角に折り包み、それを新聞紙に包んでくれた。酒屋で砂糖や塩を買ったり、駄菓子屋でおっきなガラス瓶やガラスの蓋つきの木の箱に入った飴玉やせんべいを買うと薄茶色の紙袋に入れてくれた。酒、醤油、酢、ソースなどは酒屋に空き瓶を持って行って、樽や瓶に取り付けた木製の呑口から枡に計って漏斗から入れてもらった。

 村の集落に一軒は必ずあった何でも屋はよく利用していた。食料品、調味料から、飴菓子類、日用品雑貨、正月や盆、七夕などの年中行事などに必要な品物など、「ないものはない」という店だった。ただし同じような物はないし、数も限られていて選べなかった。
 それでも子供が1人で買い物に行って、代金が足りないときなども、「今度貰えばいいんだよ」と言って品物を持たせて帰すおおらかさがあった。それはどこの家の誰かというのがみなわかっていたからでもあった。







2017/05/12 19:49:05|・助け合い社会の表と裏
10.人はなぜ血を分けた相手と争うのか
 「助け合い社会の表と裏」の前項までに、かつての村の助け合い社会の裏での、人間の欲望による醜い一面を明らかにしたが、なぜ人は争うのか。
「人類みな兄弟」という言葉が流行ったのは昭和後期で、たしか日本財団を創設した笹川良一氏の言葉からだったと思う。そして「人間みな兄弟」と言う言葉は聖書にある。

 最新の人類学のDNA検査の研究から、我々現世人類の祖先は6〜7万年前に、アフリカ大陸にいたおよそ500人くらいのグループから枝分かれしてきたという事が判明してきたそうだ。
 できるだけ多くの民族を含む147人のミトコンドリアDNAを解析した近の研究によると、「すべての現存する人類は母方の家系をたどると、約12〜20万年前に生きていた一人のアフリカの女性にたどりつく」ということで、彼女の名前は「ミトコンドリア・イヴ」と名付けられている。また、その同時代には他にもたくさんの女性がいて、家系図の母系だけを辿るのではなく、たまに父系を辿るという遡り方をすれば彼女達にたどりつくこともできるそうだ。

 すべての人間一人の上に、親が2人いて、その前に祖父母が4人、更にその上には曽祖父母が8人いる。そうして50代さかのぼってみると、地球の人口60億より遥かに超えて、数兆人になってという。日本の大昔の大和朝廷の時代や飛鳥時代の人口は全国で100万人にも満たなかったそうだから気の遠くなるような話だ。
 地球の歴史は140億年と、人類が始まって以来数十万年とされているが、祖先をさかのぼっていけば人類は全て兄弟になってしまうので、我々人類は全員遠い親戚にあたるという。また、現存する哺乳類は6550万年前の天体衝突を生き残った共通の祖先を持っているともされている。
 
 それなのになぜ人間社会では集団による争いから戦争が絶えないばかりか、血のつながりの濃い身近な人たちとまで親の残した財産などを争うのか。それは人には欲望があるため、努力して手に入れたり自分で探したり作ったりせずに、楽に手に入れようと他人の持つ物までも欲しがるようになり、争いが絶えなくなったのである。
 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という。またヤドカリは自分の体が成長するにつれて、大きくなった自分の体に合った空き殻を探して潜り込む。そんな小さな動物たちにも劣る行為を恥ずかしげもなくやれるのが人間なのである。

 聖書によると「アダムとイヴは神が作った最初の人間」とされていて、エデンの園という、仕事もしなくてもいいし、食べ物はあるという楽園に2人は住んでいた。そこには食べてはいけないと神が決めた実があったのだが、イヴが蛇にそそのかされ、アダムと一緒に「善悪の知識の木の実」を食べてしまった。神の怒りをかった2人はエデンの園を通報され、罰として人は恥ずかしいという気持ちを持たされ衣服を纏うようになり、働くことで食べ物が手に入るという労働を与えられた。
 アダムとイヴが人間の祖先であって、神に与えられた罰を守っていたならば、今のような地球上の争いは皆無であったのであろうか。







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