≪小江戸川越のぶらり散歩(写心紀行)≫

 
2020/07/08 14:08:36|その他
雨・コロナウィルス・水曜日(観光業休み日) 街は閑散でした
午前11時30分頃の市内の状況、雨は傘をささないですむ程度でしたが、街はひっそりとして、人の姿はほとんど見られませんでした。







2020/07/07 11:01:00|その他
川越の歴史(仙波氏)
 川越の歴史を語るうえで、河越氏、太田氏(道真・道灌)など有名な方の名が出てきますが、河越氏と一緒に源頼朝にしたがって戦った「仙波七郎・次郎二郎という勇者の存在も歴史の中で認識すべきでありましょう。
ここに、仙波氏について検証してみたいと思います。
 仙波氏は平安時代末期に、武蔵国入間郡仙波(川越市仙波)を拠点とし、地頭として南部一帯(現ふじみ野、富士見市、三芳町周辺まで)を所領した村山党の支族であります。
 村山党は平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつで、平頼任が多摩群に興した一族で、入間郡一体で勢力を伸ばしました。 そのうちの一人である家継の子家信(仙波七郎)を祖とするのが仙波氏で、家信は12世紀半ばに現在の新河岸川西側の高台に館(平山城)を構えたといわれています。その東の一角には長徳寺があり、仙波氏の持仏堂から派生した寺院で冷水山清浄土院と号する喜多院の末寺で、川越市指定史跡で仙波氏館跡とされています。 仙波氏は、その南部一帯(ふじみ野、富士見、三芳ほか)に広域な荘園を構え、家信は仙波七郎と称した。保元の乱では、村山党の武将は、源義朝に従い武勲を示した。
 承久の乱(1221年に日本で起こった朝廷と武家政権による初めての内乱)では川越北西部の上戸を地盤とする河越氏に従い、宇治川の合戦では京方を破るも、仙波氏は家行、信恒など多くの戦死者を出した。 その後、安家の直系では仙波盛直が北条時輔の「二月騒動」(北条氏の家督争い騒ぎ)の内乱に連座して誅殺される。
  応安元年(1368年)の武蔵国・相模国・伊豆国を中心とした国人一揆である平一揆のうち、河越氏当主の河越直重を中心とした武蔵の国の国人が、関東管領上杉憲顕に対して起こした反乱一揆(武蔵平一揆)では、他の村山党諸氏と同じく河越氏に従って挙兵するも敗北、仙波氏も衰退する
 その後は仙波二郎のように室町幕府に仕え、享徳の乱以降は扇谷上杉氏に従うが河越夜戦で上杉氏が衰退すると後北条氏の家臣となる。仙波久種は鶴岡八幡宮造営奉行に任命され、その子・仙波次種は北条氏政に仕えた。以降、相模国や伊豆国に知行を得、江戸時代の旗本の仙波氏の家系が生まれた。

※ 写真は新河岸川の中の落ち葉「小さな秋」
 







2020/07/06 20:20:01|その他
太田道灌お手植えの矢竹(川越氷川神社)
 河越城の築城にあたって、太田道真・道灌父子は氷川神社を城の守護神として崇敬したという。
 特に道灌は「老いらくの身をつつみてこそ武蔵野の草にいつまで残る白雪」と献詠し、矢竹(笹の一種)をお手植えしたとのことです。

 ※   写真は氷川神社境内の「矢竹」です。
 







2020/07/05 11:56:44|その他
天狗党の乱とは(概要)
 天狗党の乱概要 
天狗党の乱とは、一口で言えば元治元年(1864)三月、水戸藩の尊攘派天狗党が起こした争乱である。その呼称は、水戸藩の保守派が学問を鼻にかける改革派をあざけって「天狗」と呼んだことにはじまる。天狗党に属する人々は、みずからを正義派とし、むしろ誇りをもって天狗党を名乗ったという。しかし一方、近在の農民たちは、しばしば軍用金を巻きあげられて困窮していたから、その子どもたちは、天狗といえば純然たる集団強盗のこととばかり思いこんでいたそうだ(山川菊栄著『幕末の水戸藩』)。
 天狗党の面々は、藩主徳川斉昭の藩政改革を機に登場した軽格武士を中核とする急進派で、保守派の諸生党と対立した。天狗党は攘夷延期を不満として筑波山に挙兵し、心事を一橋慶喜に訴えるという目的で大挙上洛の途につく予定だった。
 最初、筑波山に集まった人数は百数十名にすぎなかったが、その後、一時、太平山に移り、さらに再び筑波山にもどるなどしているうちに千人余にふくれ上がった。幕府の命令を受けた近隣の結城(ゆうき)、土浦等の諸藩が天狗党を攻撃したものの、反対に攻め破られている。しかし、幕府の若年寄・田沼意尊が常野追討軍総括として、大軍を率いて筑波山を囲むに至って天狗党も山を下り、以後は同藩の反対派である諸生党との抗争がしばらくつづく。 筑波の天狗党と天狗党の主将・武田耕雲斎の率いる軍勢およそ四千は御殿山を攻めて諸生党を追い払った。しかし幕府軍の攻撃を受けて降服するものが相次いだ。党員のうち、江橋五右衛門以下230人罪人として川越藩に預けられた。
 
※ 写真は自宅に咲いたアガパンサス
 







2020/07/04 15:15:04|その他
水戸藩十九烈士埋葬の地 (市指定・史跡)
水戸藩十九烈士埋葬の地 (市指定・史跡)  
 明治維新に先きだつ元治元年(1864)水戸藩内「天狗党」は尊王攘夷を強行しようとして、筑波山に決起したが、幕府はこれに対して激しい攻撃の軍を進めた。天狗党の一部は茨城県那珂湊の部田野原の戦いに敗れて降伏し、隊員のうち江橋五右衛門以下230人は罪人として川越藩に預けられた。 江橋五右衛門は翌慶応元年(1865)4月2日死罪打首の刑に処せられた。その内18人の武士は抑留中それぞれ病に倒れ,併せて19人の遺骸はいずれも喜多町の広済寺に埋葬された。川越藩主は慰霊のため永代供養料15両と水府浪士19柱の位牌を当寺に奉納したという。

※ 写真は我が家のパイナップルフラワー







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