カツマタクラス

 
2018/04/03 22:58:00|その他
新年度が始まります。
どうしようかと思ったのですが、前回が中途半端に終わった気がして、とりあえず一言書いておこうと思いました。
目的がはっきりしない中で、何かを表現してもどうかと思うのですが、徒然草の例もあるので、今回は自分のためのページです。

以前、日本人の特徴の一つとして「個にこだわらない」というのを書いた。会社の名前にしろ、製品の名前にしろ、西洋のものには個人の名前を使ったものが多い。「ポルシェ」「フォード」は当たり前として「コマーシャル」が人の名前だったと知ったときには、何なんだと思ったものだ。「あのコマーシャルが」とか「あのシルエットは」とか聞く度に夫人の顔だの財務大臣の姿だのが想像されてうんざりした時期もあった。(シルエットの語源はフランスの財務大臣の名前。コマーシャルは貴族(?)のコマーシャル夫人)
ところが、日本人は違う。
背筋を伸ばす健康器具に鉄棒や物干しを短くしたようなものがあるが、みんなが幸せになればと発明者は特許を取らなかったそうだ。また、ノーベル賞を取った科学者の田中さんも企業の一研究員の様子のままでテレビに映っていた。絵画などになるともっと顕著(けんちょ はっきりしていること)で、作者のはっきりしない国宝など飽きるほどある。「鳥獣戯画」もその一つで、その解説書を読んでいたら自分の知識のなさ見識の狭さに恥ずかしくなった。
「鳥獣戯画」というのは、京都のお寺にある国宝の漫画の巻物で、甲乙丙丁の4種類がある。どうも作者は全部違うらしいということは知っていたが、解説書ではそれぞれの巻に特徴があって実に面白いと書いてある。甲巻が抜群の筆致で丁寧に擬人化した動物を書いているのに対し、乙巻は擬人化なんかしない代わりに空想の動物がばんばん出てきて現実と幻想の世界が入り交じってくる。丙巻になると人間と動物が入り交じって、丁巻になると人間ばかりがさらっと描かれている……。甲巻を見て考えた人が乙巻を描き、乙を見て丙ができて、と呼応、連鎖していると言うわけだ。
教科書や博物館で断片ばかりを見ながら、何だろうこれは。この違和感は。と思っていた私にとってこれらの言葉は、どうしても釣れないヤマメの釣り方を教えてもらったときのアドバイスによく似ていた。「知る」ことの楽しさはここにある。違和感を感じ取ること、違和感を突き詰めたいと思うこと。先生が欲しくなるのはそんな時であるし、多分、それが全ての始まりなのだ。
「われ、如何にせん、如何にせん、と言わざるもの、如何ともするなきなり(なんだろう、どうしよう、といわない者はどうにもできない)」
孔子の言葉である。
話がずれた。
その「鳥獣戯画」だが、作者も時代も全くわからないらしい。いつ、誰が、どうして描いたのか。もっと言うと、なんで巻物にまでしたのか。一つの作品の魂を受けて、別の魂が新しい作品を作る。それがまた次の魂を揺り動かして、最後は「人間」にたどり着く(立ち戻る?)。誰が作ったかは問題でない。それぞれに抜群の思索と表現だけがあって、それに賛同した「誰か」が巻物にして残す。オリジナルには、焼け跡まであるとか。つまり、命がけでこの漫画の価値を知り炎から救い出した人物がいるのである。その全てについて、誰一人として名を残していない。これを文化の象徴といわずして何を文化というのか。多分、我が国に残る国宝一つ一つに、それぞれの「日本」がぎっしり詰まっているのだ。
「文化」を残してくれた先人に感謝し、その価値を知る。知った上でその「文化」を守り、本質を形にしていく。そこに「個」にこだわる狭小さは空しい。
お寺が漫画を守ってきたことに、感謝をしたい。

追伸 解説書は、山口晃作「ヘンな日本美術史」です。