知っている人ばかりなのだろうが、私としては二年前に初めて耳にした言葉である。 イギリスなどから提唱されている真の福祉社会の在り方ということだった。具体的には、足の不自由な人が二階へ自由に行き来できないとしたら、それは社会が未熟だからだという考え方にそって形成される社会だ。 あらゆる人が不自由さを感じないでいられる社会…世界の現状とあまりにかけ離れた社会に思えて苦しい。
何度も棒で人の腕や背中をはたいてくる小4の男の子がいる。いたいからやめてというと、僕はいたくないからいいじゃんという。他者が存在しないのだ。顔をねらっていないから多分想像力はあるのだと思って、相手の痛みを想像しないと社会で生きるのが難しくなるというと、相手の痛みなんてわかるはずがないという。その通りだ。けれども、分からないなりに分かる努力をしないといけないと伝えたが、言っていることがわからない(わからないものをわかる努力をしたって無駄だ)と言い返されてしまった。
本当に相手の痛みがわかるのなら、世の中で戦争など起こるはずがない。目にしろ、腕にしろ脚にしろ無くなって初めてそのつらさがわかるのであって、肉親や家財を失うつらさがわかっていたら、戦争などできるはずがない。原爆を人間に落とせたのは、相手を自分と同じ人間だと思っていなかったからだ。それでも、他者(他国?)の痛み(存在)を意識できない者は、どうしても社会で生きていけない。社会の法の本質は他者とのトラブル(自他の痛み)を避けることであり、法に従えなければ社会で生きていけない。自分の痛みだけを問題にすれば、それは独裁者(暴君)にしかならない。
他者の痛みを想像できない(痛いと相手が言うのだから、痛いのかもしれないと思えない)者に、その必要性をどう説いたらいいのか。たった一人にさえ苦しんでいるのに、あらゆる人が不自由さを感じない社会など望めるのだろうか。 法は、他者の存在を前提にしている。今までもこれからも、人間のレベルにそって法は作られる… 欧州は、欧州以外の国々が見えていないとしか考えられない。富んでいる人々がどれだけ気づかず貧しい人々を傷つけているか。貧しい人々が、どれだけ漠然とした被害意識を募らせているか。
これから先は、まさにいいすぎになる。しかしこう感じている。 一神教の社会は、強烈な目標を持っているだけに進歩に極端に過ぎる。神はいるが他者がないがしろになりやすい。理想に寄りすぎてしまうと、かえって気づかないうちに他者を阻害し、その被害者意識をつのらせるだけになるのではないか。それは全体の進歩改善に悪い気がする。激しい損をとって全体の底上げをするか、あるいは、他者を意識してもう少しゆっくり主張してほしい。
きわめてわかりにくい(自分でも説明しきれない)文章になりました。ごめんなさい。 |