カツマタクラス

 
2017/11/20 6:55:54|その他
衣服の意味
合言葉は、「くうねるあそぶ」ですよ。何年も前のある車の宣伝だ。どこか郊外の林の中を抜けながら、井上陽水さんが並走する車に向かってこうしゃべる。なんだと思ってるうちに彼を乗せた車は走り去ってしまう……。
「食う寝る遊ぶ」だろう、といったら、そんなはずはない、あれはどこかの外国語だ。と友人にバカにされたので、とても印象に残っている。多分、アクセントや発音のせいで違うと頑強に否定したのだろうが、もともと合言葉には呪文の要素があると思っている私には、これからの時代、生活・生きるということは「衣食住」ではなくて「食住遊」てあると提案している宣伝に思えた。「食住遊」に合う車ですよ、というわけだ。「遊(ゆう)」=「裕」。ゆとりを楽しもうよ。とても魅力的なコマーシャルだった。
その時同時に、考えさせられたのは、なぜ生活の象徴の三要素の最初が「衣」なのかということだ。
「食うことは生きること」その世界の食べ物を食べることは、そこの一員になること。やくざの世界では「一宿一飯の恩義」は絶対で、出入り(組の間の抗争)では命を掛けなければいけなかったという。神話でも、黄泉の国の食べ物を食べたイザナミは地上には戻れない。「食」が最も大事なことに思える。
「住」も同様である。道端や野原で「寝る」ことがどれほど恐ろしいことか。山中で野犬の遠吠えを聞きながら夜を明かすのは、帰る家があるありがたさを再認識するいい機会に違いない。ところが、「衣」は。山行(さんこう 宿泊しての山登り)で、尾根(やまの稜線(りょうせん))を巡っていると、水場なんてほとんどないので風呂も着替えも二、三日はしないのが普通だ。警察や医者など身分を象徴する制服は大切かもしれないが、一番に挙げるほど生活の必需品なのだろうか。そう思っていた。
しかし、かぐや姫の天の羽衣の場面で思った。この時、かぐや姫は人間の服の上に羽衣をかけたのではない。「脱ぎおく衣に、不死の薬」を包んだとあるように、一切の着物を脱いで羽衣をまとったのだろう。一糸まとわぬ状態は、現在の日本では全く許されていないから、何かを着ていることは当たり前すぎていて必要性やありがたさに気づくことすらなくなっているが、「人として最も必要なものは服なのだ」つまり、服は人間の象徴であり、それは「天の羽衣が天人の象徴である」ことを意味する。昔の人は、日常生活で、一糸まとわぬような思いを結構していて、それだけに「生きること=衣」を痛感していたに違いない。今の私たちは物に豊かすぎて、(生命の危機の経験がなさ過ぎて)モノの本質や真の価値をすっかり忘れているのだ。
天の羽衣=天人であるとすれば、「天の羽衣」はどんな服なのだろう。もっとも、描けるくらいなら、天人になれてしまうのかもしれない。そうおもった。