カツマタクラス

 
2026/05/16 8:00:07|その他
未解決事件の裏に
最近、気が滅入ることが多い。とんでもない情勢であっても、正常性バイアスが働いたり、誰かがそれを求めているかのような感じがしたり。理不尽な苦しみを味わっている人々に手を差し伸べるあるいは差し伸べようとすることは、絶対自分たちの平和にもいい影響を与えてくれるはずだと思うだけに、静観するつらさを感じ始めている。
その気持ちが、より物事をネガティブに捉えさせているのだろうか、いいはずのものもどうかと思ってしまう。最近の再審に関する話などがそうだ。冤罪が認められるようになる反面、気になることができた。では真犯人は、今どうしているのか。
確かに罪を逃れ、公的な罰を受けずに生きているのだろう。かつて九龍というスラム地区が香港にあった。政府の方針で強制撤去され、さて、その住民はどこに行ったのか。
昔、生まれたての野良ネコの赤ちゃんを前にして、どうなっちゃうのと悩む子供たちの中に、「どうにか生きていけるものよ」と言い切った女の子がいた。三匹いて、一匹は私の家に、一匹は別の女の子の家に、三匹目は去勢手術をタダでやった獣医師の家に収まった。我が家の猫は、今も私より堂々とマンションに住んでいる。女の子の猫は、その子の母の実家に引き取られ、外によく出ていていつか行方知れずになったという。三匹目の「今」はもっと不明だ。
大量に産み落とされるニシンの卵は、多くの別の命の糧になって、それでもいくらかは残ってくれるから、また次の世代につながっていく。つまりほとんどが餌になってくれないと世の中が回らない。生き残るかどうかは、ほとんど運なのだろう。
はるか昔からずっと、すべての犯罪者が等しく罰を受けるということはないようだ。中国の古典「史記」の冒頭でも、盗人の庶という人物が挙げられていた。人の肉まで食らったという盗っ人でも、多くの子孫を設け天寿を全うしたという話である。何万人何百万人も殺した戦争を起こした人物でも、国葬してもらえている場合もある。
とんでもない人も、たぶん普通に生活しているのだ。だとすると、すべては自分が自分をどう裁くかなのだろう。それも、前回同様、どうどこまで生きるかという問いにつながっていく。どうするのが、一番いいのか。さて……

一言だけ。冤罪を肯定しているわけでも、裁かれずに生きている犯罪者を肯定しているわけでもありません。ただ、答えを出せずにもがいているのです。先日、「ペイフォワード」という映画を見ました。私は、世の中を信じたい。